第609回 おろそか

 
平成16年 9月23日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
10年半に一回担当の巡番報恩講、お陰さまで無事ご満座を
迎えることができました。


この度の法要、夏のような暑さ、連日の雨、そして多数の参拝の方々に
恵まれて、尊い有り難いご縁でした。


多くに方に参加感を持ってもらうために、献灯 献華や、稚児行列、
表にテントを張って手作りの物や、遠く北海道からの農産物を送って
いただき、直売会など、それぞれの立場でご協力をいただきました。


まことに有り難いご縁でありました。
お昼だけではなく、夜の法座でも、壮年会の方々が積極的に質問を
していただき、大変盛り上がった法座となりました。


その中に、歎異抄の第9条の中に、
「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ
浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、
申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにて
ありけり。・・・・」               


のところがどうしても分からないという質問がでました。

現代語訳(中西智海先生)では
念仏を申しあげておりますけれども、身のおどりあがるほどの嬉しさ、
心からの喜びが不十分でありますこと、また、ただちに浄土へいかせて
いただきたいと思う気持ちがありませんのは、どのようにあるべきことで
ありましょうかとお尋ねもうしましたところ、親鸞もそのような疑問があったのだが、
唯円房よ、あなたも同じきもちであったのだなあ。・・


とあります。

ここでは、親鸞聖人と唯円房との対話を通して、念仏は恍惚の境地に
誘うものではなく、現実の自身にめざめさせるものであること、信心は
浄土への単なるあこがれにあるのではなく、自身の上に大悲の願心が
感得される世界であることを明かにするものでしょう。


ところで、唯円の質問は喜びがないのではなく、「おろそか」であること、
まったくないのではなく、時々喜びが薄れることを意味しているのでは
ないでしょうか。


全くないのではなく、「おろそか」であると言えるほどのお念仏を体験して
みたいものです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、9月30日に新しい内容に変わります。

(永田文昌堂 講座歎異抄 中西智海著を一部引用)