第641回 神通力

 平成17年 5月5日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

浄土真宗は本願の教え・真実の教えと言われますが、
「阿弥陀仏の本願」という文章の中に、こんなところがありました。


第一の願、無三悪趣の願から順に解説され
第6願、天眼通の願の所です。

「 私は、この天眼通といえば、何でも見える眼が欲しいのだと
  思うっていましたが、そうじゃない。


   地獄の国を見たいのでない。何でも分かる眼が得たいという
   のではない。
   百千億那由他のもろもろの仏の国を見ることのできる眼が
   欲しいという願いです。・・・


   普通の人は仏の国を見ぬ、鬼の国を見ておる。あるいは餓鬼の国を
   見ておる。畜生の国を見ておる。
   新聞などには、よく泥棒の話や喧嘩の話を長いこと書いてある。


   これに反して、孝行な子や感心な人のことはあまり書いてない。
   新聞はみんなの好きなものを書かねばならぬのだから、泥棒の話や
   人殺しの話を新聞に書くのは、世の中の人はこんなことを読むのは
   好きだからである。


    新聞は社会の反映だ社会の好きなことを書いておるのだ。・・・

    天眼通を得たいという願いは、他のところを見たいというのではない。
    仏の国をみたいという願いである。


    何を見たいと思いますか。東京を見たい。大阪を見たい。
    いや芝居を見たい。
    この願いはそういうところを見たいという願いではない。
    もろもろの仏の国を見る眼を得たいというのである。


     仏の国を見る眼が開かれるというのは、もう内心に仏の心が開いて
    おることなんだ。
    法蔵菩薩が、仏の国の見えるような眼が欲しいと願われた、この心の中に、
    自分が仏になるという望みの一端が現れておるのである。


     この通力で。仏の心へ通ずる、仏の国へ通ずる、
     これが天眼通であります。・・・


     また次の第7願の天耳通も、何でも音が聞こえるというのではなく。
     仏の声が聞こえる耳を得たい。仏さんのご説法の聞こえる耳が
     欲しいと願われたのである。

     いろんなことは聞かんでもよい。われわれは仏の声に耳を
     開けばよいのである。


      仏の声を聞けば心は明るくなって行ける。この通力を得たい。
     これが天耳通であります。」 と 説いていただいています。


     「生きた仏さんの説法はどこにでもある。それを聞ける耳が得たい。
     油断しておっては聞こえぬものだ・・」とも書かれています。


   この世の濁りや雑音だけに心を奪われずに、仏さまの声を聞く毎日で
   ありたいものです。

   南无阿弥陀仏が聞こえる生活でありたいものです。
   妙念寺電話サービス次回は、5月12日に新しい内容に変わります。 

      浄土真宗名法話講話選集
       「阿弥陀仏の本願」暁烏敏 より一部抜粋
         同朋社メデアプラン発行