第662回 滅私か 活私か

 
平成17年 9月29日 〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

お彼岸の中日、境内のお墓にお参りの方が余りにも多く、
驚いています。


彼岸の入りには殆どの方が、お花を新しく奇麗にされており、
お中日は参拝者が少ないだろうと思っておりましたら、天候に
恵まれたせいか、出店を出していいように、賑わっていました。


 今年は、境内の柿が良く実り、おみやげにと、入り口に置いて
おきましたら、すぐに無くなってしまうほどでした。


 ところで、インターネットでご縁が出来た方が、関西からお参りに
なりました。


佐賀のご出身で、ご兄弟もこちらにいらっしゃるようですが、
野墓はあるものの、お取り次ぎのお寺がないということで、
ご夫婦でお参りいただきました。


お勤めの後、浄土真宗のお話しをし、報恩感謝ということを
お取り次ぎしたつもりでいましたが、「滅私奉公」という言葉と、
混同してお受取りになったように、お礼のメールや、ご自分の
日記を公表されているものに書かれておりました。


戦争を経験された方、戦前の教育を受けられた方、そして
葉隠などの武士道をお読みになる方は、報恩の行いと
滅私奉公とが、どこか近く、ついつい誤解されることがあるのだと、
改めて感じ、気づきました。


滅私奉公ということを知らない世代は、報恩ということの意味が
逆に素直に受け取ることも出来るようですが、自分を捨て公の
ために努力することが理想とする時代に活躍された方、また
会社人間で企業の発展のために無我夢中で尽力された方には、
報恩ということは、意外と難しくご理解いただけないことなのかも
しれません。


 尊いご縁に出会い、仏さまのお話しを聞き、お念仏の生活を
始めてみると、自分を充分に生かしながら、自分がやれることを、
損得抜きに、精一杯やることの出来る私に変えられていくものです。


ところが、現実社会の常識で、生きている人には、見返りを求めない
行動など、とても理解できないのだと思います。
組織で決定されない自主的な勝手な行動などは、価値を認められ
ないのでしょう。


自分を生かし、社会から、組織から正当な評価を得ることこそが、
人間の進むべき方向であるとの理解を持つ人には、阿弥陀様が
喜ばれる報恩の行動はなかなか分かっていただけないのだと思います。


お念仏に出会うと、これまでの常識、これまでの物の見方から大きく
転じられて、喜びの多い生き方が出来るようになるのです。


誰も見ていなくても、誰にも知られなくても、仏様が見ていただいて
いる。私の行動はお返しの行い。何かを求めるのではない、やむに
やまれずの行い、しかも自分を殺してではなく、自分を生かしながら、
楽しく喜びのうちに行えるのだと思えます。


滅私ではなく、活私。私を生かす行い。誰のためでもなく、阿弥陀如来が
喜ばれること、多くの人びとのために、迷惑でしょうが、やらせていただきます。
というのが、報恩感謝の生活だろうと思います。


それは、口に南无阿弥陀仏を称えることで、南无阿弥陀仏を聞くことで、
おのずから伴ってくる行動だと思います。


報恩のお念仏、報恩の生活、喜び多い生きがいある毎日を送りたいものです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
次回は、10月6日に新しい内容に変わります。


         

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