第665回 今日という日を

 
平成17年 10月20日〜

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本願寺のラジオ放送が毎週行われていますが、9月の末に、
京都の辻本敬順先生が、一夜賢者の偈のお話しをしていただきました。


今日はその中から、ごく一部をご紹介します。一夜賢者の偈とは
こんなお経です。


過去は追うな。
未来を願うな。
過去はすでに捨てられ、
未来はまだ来ない。
だから、ただ現在のことを
ありのままに観察し
動揺することなく、
よく理解して、実践せよ。
ただ今日すべきことを熱心になせ。
明日、死のあることを誰が知ろうか。
かの死神の大軍と
会わないわけはない。
このように考えて、熱心に
昼夜おこたることなく励む人、
このような人を一夜賢者といい、
寂静者、寂黙者と人はいう。

こういう教えです。
仏教は、この偈のように、現在を問題にする宗教です。
過去・現在・未来という言葉があります。
前世・現世・来世などともいいます。

しかし、仏教では、時間というものを実体としてあつかわず、
存在するものの変遷としてとらえています。

「過去は現在の原因であり、未来は現在の結果である」というところから、
今、生起している現在こそ問題にするのです。


仏教は「今」「ここ」 「私」を対象にしているのです。

今世紀は「心の時代である」と、よくいわれます。学校での
宗教教育の重要性もよく指摘されています。

中学や高校の教科書をみると、宗教や仏教が記述されているのです。
お釈迦さまも、親鸞聖人も出てきます。


資料集には、『歎異抄』も『白骨のご文章』も載っているのです。
しかし、問題なのは、その記述のほとんどが「過去形」だということです。
「今から何年前、だれが、こんな教えを説いた」と言うぐわいです。


過去の事実については適正で客観的なのですが、仏教と現代社会との
関連は大変薄いのです。


『仏説阿弥陀経』というお経には「極楽には、阿弥陀仏と申し上げる
仏がおられて、今、現に、教えを説いておいでになる」と、説かれています。

「今現在説法」とあるのがそれです。

阿弥陀さまは今、ここにいる私に向かって、働き続けて
下さる仏さまなのです。


仏教は「諸行は無常である」と説きます。
だから、一夜賢者の偈は、過ぎ去ったことをクヨクヨ思い惑ったり、
未だ来ぬことを取り越し苦労したりしないで、

二度とない今日という日がもっとも尊いことを、教えているようです。

という内容の放送でした。(時間の関係で だいぶ省略しています)

これを聞いて思いますのは
南无阿弥陀仏を口にする生活が、この一夜賢者の生活に近い生活で
あると味わいます。


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次回は、10月27日に新しい内容に変わります。