第668回 選ばれている私

 
平成17年 11月10日〜

 一昔前までは、教育を受けることが出来る人は少数派でした。
ほとんどの家庭では、毎日の生活に追われて、子供が一日でも早く
学校を終えて、稼ぎ始めてくれるか家の手伝いをしてほしいというのが、
親の願いでした。


「勉強なんかせず早く寝ろ。電気代がもったいない無駄なことはやめろ。
そんな暇があったら手伝え」と、リンゴ箱を使っての勉強でも、気兼ね
するのが普通の家庭だったようです。


少々成績が良くても、上の学校にやるだけの余裕がなく、貧乏の子沢山と
言われるように、多くの兄弟がいる中、進学したいと言い出すことも出来ず、
あきらめざるを得なかった多くの人がいると思います。


勉強好きで、特別に成績の良い子は、篤志家が援助して、上級学校に
上げてもらうとか、子供がいない家の養子に行って、勉強をつづけた
もののようです。


今のように、ほとんどの子供が高等学校や大学へ行ける時代からは、
想像もできないことです。


なんとかして勉強したい、親や兄弟に苦労をかけ、多くの人に助けられて、
自分だけ学校に行ける、申し訳ない、有り難いことだという気持ちから、
自分のわがままや、怠慢であることを恥じる気持ちを、高等教育を
受けた人の大半が持っていたのだと思います。


自分は選ばれて教育を受けている、その分は、みんなにお返しを
しなければならないとの意識が強かったようです。


 現代は、誰でも実力さえあれば上級学校へ行けるようになって、
自分の力で勝ち抜いてきたんだ。勝ち抜いた自分の勝手でしょうと
いう気持ちしかなく、お世話になった皆さんの為にという気持ちなど
まったくなく、自分のために得する毎日を送っているようです。


 昔行きたくても、どうしても、学校へ行けなかった多くの人びとは、
違う形で有り難さを感じる能力を身につけてきたのだと思います。


それは、自分が生きて行くためには、多くの生き物のいのちを頂く
ことでしか生き抜いていけない。


自分一人の力ではなく、生かされているのだと、お仏壇へ、お寺へ、
お墓へお参りする度に、繰り返し繰り返し伝えてきたのだと思います。


親や祖父母の命日には、精進料理にして、生き物を食べて生きている、
自分は選ばれた人間であることを、小さいときから教えられて来たように
思います。


ところが、現在はそうした選ばれて生きている私という意識が段々
なくなって、自分中心の生きることしか知らない時代になっているのでしょう。


私は、私であっても、みんなに見守られ、多くの力によって育てられて
いる特別の存在であるということを、どうして伝えて行けば良いのでしょうか。


お寺の法座は、家庭の法要は、そしてお念仏はそれを伝えていたの
でしょうが、それがうまく受け取られていないようにも思います。


ありがとうお蔭様と本当に言える生活は、実は最も充実した人生だと思えます。

私は選ばれて生きている、こんなことでは申し訳ない、すこしでもお返しを
しなければ、そういう気持ちに気づかせていただくのは、どんな高等教育を
受けるよりも、最高の智慧、その智慧は南无阿弥陀仏の働きでしょう。


みんな豊かになって、みんなが最も大事なことが忘れられているように思います。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
次回は、11月17日に新しい内容に変わります。