第677回 祈らない宗教

 平成18年 1月12日〜

本願寺新報に 「高校生のための仏教講座」 が 連載されていましたが
その中に こんな項目がありました。 「 祈りなき宗教」 という文章です。


宗教と言えば 神仏にお祈りするものと思われがちですが
 浄土真宗は 
全く違います。


私の願いではなく 仏さまの願いを聞くのです。

一般的には 宗教と言えば 神さまや仏さまの前で 手を合わせ、自分の願いが
かなうように 祈りを捧げるものだと 思っている人が
 多いようです。
しかし、浄土真宗は そういう宗教とは 全く違います。


浄土真宗では 仏さまに向かって 祈るということはしません。
もっと言えば 基本的には  「 祈る 」 という言葉も使いません。

例えば 「 健康を お祈りします 」 や 「 益々の発展を お祈りします 」 なども
「 お祈りします 」 ではなく  「 念じます 」 とい言葉に 置き換えます。

  なぜかと言えば 「 祈る 」 という言葉には 「 神仏に お願いする 」 という意味があり、
浄土真宗の教えに 合わないからです。


そこで 「 心に強く思う 」 という意味の 「 念ずる 」 という言葉を使うのです。
「 祈る 」 という言葉にも 「 心に強く思う 」 という意味もあるので、そこまで
こだわる必要も無いという人もいますが、やはり 「 祈る 」という言葉には
「 神仏に お願いする 」 という意味あいが強く、 浄土真宗の教えに生きるものに
とって、その信心のあり方を はっきりさせるために、使わないほうがいいでしょう。


では なぜ 浄土真宗では 「 祈る 」 ということを しないのでしょう。
それは私たちの祈りは すべて自己中心の心から 起こるものだからです。

願いと言えば 聞こえはいいですが、突き詰めれば それは欲望です。
願いがかなえば 感謝の心が起こりますが、かなわなかったら 不平不満の心が起こります。

それに、もし私の願いが全部かなったら、私以外の人にとっては  とてもいやな
世界になるでしょう。


そのように 私たちの願いは 常に自己中心の心から 起こるものなので、浄土真宗の
本尊である阿弥陀如来さま ( 信仰の対象 ) に お願いしても願いをかなえてくれません。


いくら一生懸命祈っても 無駄です。
無駄というより 自分勝手な願いをかなえてくださいと 一生懸命になっている私に向けて、
そんな自己中心的な願い ( 欲望 ) が かなうようにと お願いするのではなく、
自己中心的な願いしか 持てない自分を厳しく見つめ直し、正しい方向に向かって
生きてくれよと 願っていてくださるのです。


 つまり、浄土真宗では 私の願いを かなえてもらうのではなく、仏さまの願いを聞くのです。
そこに 私が本当の人間として生きる道が見えてくるのです。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は 1月 19日に新しい内容にかわります。

       本願寺新報 小池 秀章 師  (京都女子中学・高校教諭)掲載分より一部転載