第684回 善悪のふたつ
 
 平成18年 3月2日〜

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私どもの日常生活は、意識しているかしないかにかかわらず、
常に自己中心的な思いに支配されています。


自分に都合のいいものを「善」といい、自分に役立つことがらを「是」とし、
自分に都合の悪いものを「悪」といい、自分に邪魔な存在を「非」と
呼んでいるのです。


そして自分に都合のいいものに対しては愛着し、都合の悪いものには
憎悪の感情をもって対応しています。


こうして私どもは自己中心的な自分の心に左右され、善悪、是非を判別し、
愛と憎しみの世界を描き出していくのです。


人間の顔が十人十色であるように、人はみな都合がくいちがっています。
私にとって都合のいいことが、他の人には悪であったり、相手にとって
是であることが、私にとっては非であったりすることは、いくらでもあります。

ですから、自分の都合だけを中心にして判断し、行動していけば、
必然的に争いが起こってきます。


たまたま利害関係が一致するものは同志として結びついて党派をつくり、
利害が相反すれば敵とみなして憎悪をもやしていきます。


こうして人は、愛憎の煩悩に翻弄されながら満身創痍の人生を送っていると
すれば、まことに「そらごと、たわごと」といわざるをえません。


こうした人間が形成していくさまざまな集団、家族・親戚・地域共同体・
民族・国家は、いずれも強力な自己中心性を核として成立していますから、
いつはてるともしれない抗争がつづくのも当然といえましょう。


親鸞聖人は「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」と仰せられたと
歎異抄にあります。


自己中心的な思いに支配されて、自分の都合をいつも価値判断の中心にすえ、
自分にとって都合が善いか悪いかだけで、互いに善だ悪だといい争っている
私どもの日常のいとなみの空しさと虚構性を、ズバリえぐり出すような
ひびきがあります。


 これに対して、すべてを知り徹された如来だけがなしうる「まこと」の判断と、
煩悩具足の凡夫がなす「いつわり」の判断とが対比されています。


如来が一点の私心もまじえることなく、すべてを知りつくす真実の智慧をもって
「よし」と断定された道は、自他ともに安らかな涅槃のさとりを開くことの
できる道であり、「あし」とおおせられる行いは、自他ともに破滅におちいる
煩悩悪業をさしているのです。


仏教とは、こうした如来の見極めた真実の道の実践を説くものだったのです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、3月9日に新しい内容に変わります。
                  
       本願寺出版 聖典セミナー 歎異抄  梯實圓和上著より 一部抜粋