第685回 永遠のいのち

 平成18年 3月 9日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
こんな文章に出会いました。

「永遠のいのち」という 中央仏教学院の
白川晴顕先生の文章です。


科学が発達し、それに伴う形で医学も進歩してきました。
このまま医学が進歩すれば、私たちの寿命もさらに延びていくことでしょう。
先日、NHKのラジオで、ある大学の先生が、将来の、それほど遠くない
時代に、今、話題になっている臓器移植は必要なくなり、人間のほとんどの
臓器が人工臓器やバイオ・テクノロジーによる素材でまかなえるようになると
話されていました。

そうなると、どうでしょうか。「最近、心臓の働きがどうもおかしい、六十年休む
ことなくはたらき続けてきたので、老朽化するのも無理はなかろう。
ぼちぼち新しいものと取り替えてみようか」と、新車に乗り替えるような感覚で
臓器を取り替えていくような時代がやがて訪れるかも知れません。
それは、まさしく私たちの永遠の願いである不老長寿が達成される時代の
到来であるともいえましょう。


しかし、話の中で、いくら医学が進歩しても、人間の臓器の中には取り替えが
できないものもあると付け加えられました。
それは、脳と眼球と生殖器官の三つの臓器だそうです。


コンピューター技術がいかに発達しても、私たちの脳の構造は複雑多岐にわたり、
とても人工でまかなえるものではありません。
また眼球もカメラのレンズの百倍の性能があり、これも取り替えることは不可能だ
そうです。


 そうすると寿命が百歳、あるいは百五十歳まで延びたとしても、それに
反比例するかのように三つの機能は衰えていきます。
中でも頭脳が衰えていくということは、記憶力や判断力はもちろんのこと、
運動能力など、さまざまな機能が低下していくなかでの生活を強いられます。
果たして、そのような長寿を皆が望むでしょうか。


 村上速水先生の著書『道をたずねて』に、

食は一日の飢えを満たし

財は一生の欲を満たし

法は永遠のいのちを満たす

という言葉が紹介されています。

仏法の教えに出遇い、教えが自分のものとして受けとめられた人には、
物事の優劣にこだわることへの虚しさが知らされます。
物事の優劣は、私たちの欲望の産物に過ぎません。
例えば、私たちの心で、平素、最も強い欲望は、「いつまでも元気で生きていたい」
という生命欲ですが、この欲望の色メガネをかけて健康と病気を眺めたならば、
健康は優れ、病気は劣ったものという見方になってしまいます。
極端にいえば、生きることと死ぬこと、この二つを「生きたい」という欲望の
色メガネで眺めたならば、「生きることはすばらしいこと、死ぬことはダメであると
いう見方になってしまいます。
しかし、これは真実にありのままの見方とはいえません。
仮に欲望の色メガネを外して物事を眺めることができたならば、「生きることも
死ぬことも優劣はない。生きることもすばらしい、と同時に死ぬこともまた
すばらしい」という境地が目の前一杯に広がっていくに違いありません。


 仏法に耳を傾けていく念仏者には、欲望の虚しさがおのずと知らされ、
身についていきます。
「生きることも死ぬことも優劣はない」と、生死にとらわれない世界が開かれてこそ、
いのちは永遠に生かされるといえるのではないでしょうか。


 このような文章です。

法は、永遠のいのちを満たす
お念仏とともに、永遠のいのちを生かさせていただきたいものです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
次回は、3月16日に新しい内容に変わります。


鹿児島別院 HO HO HO 149号 平成12年9・10月  
永田文昌堂発行 「浄土真宗は目覚めの宗教」 白川晴顕師著より