第686回 念仏せよの呼びかけ

 平成18年3月 16日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
佐賀にもご縁の深かった平野修先生の遺稿集を読み返しておりましたら、
こんなところがありました。


「『念仏せよ』という仏の呼びかけ」という文章です。

  真宗は、念仏が要です。その要である念仏を、どのように心得、どのように
受けとめるかということが最も重要なことです。
念仏は、ご先祖に感謝するためにあるものではありません。ご先祖に感謝するために
念仏してもいいですけれども、それが要ではないわけです。
大事なことは、念仏は、この自分が教えられた、導かれ、悟らしめられるものだ
ということです。


ご先祖様のことを思って念仏するような場合は、自分のことは棚上げされています。
自分のことは済んだつもりになって、ご先祖様は暗いところへ行って苦労しておいでに
なるかもしれないから、そのご先祖様のことを思って念仏するのだということになるの
でしょう。

それはちょうど、川で溺れている者が、道を歩いているお婆さんがよろよろしている姿を
見て、「お婆さん、危ないぞ、もう少しでひっくりかえるぞ。そこに石があるぞ。
そこに、でこぼこがあるぞ」と自分こそ溺れて危ないことを知らずに、一生懸命言って
いるのと変わりありません。


 問題は、どこまでも本人の悟りです。
阿弥陀仏が、我々に念仏せよと仰せられたのは、「ご先祖様のために念仏せよ」と
言われたのではない。我々一人一人に向かって念仏せよと言われたのです。
ではなぜ、我々に念仏せよと言われたのでしょうか。

我々に対して、「愚痴を離れなさい。愚痴の本には我がある。
その我を知って、我を離れて無我になりなさい」と、そういう教えをお説きになられても
よかったのです。
ところが、我々に対して念仏せよと仰せになられた。そのように、念仏せよというふうに
仏様をして説かしめたのは、実は我々の方にその原因があるのです。


つまり、教えということの中には、ぴったりわが身に当てはまるという意味があるわけです。

洋服の仕立て屋さんは、我々の身長、胸囲、胴回りなどをすべてきちんと計ってから、
「あなたにぴったりの服はこれだ」ということで仕立ててくれますが、それは客である
私のことを思って作ってくれるのです。

それと同じように、教えは我々にぴったり合うように作られている。
合わない教えだったら、それがどれだけ立派であっても間に合いません。
たとえ一千万円もする立派な服であっても、男の客に対して女性用の服を作ったなら、
間に合いません。

同じように「無我になりなさい」というのは立派な教えですけれども、間に合わないのです。
無我になどなっている暇などないほど我ばかり立てているのが私たちです。
「無我になれたらいいんですが」と言っていても、それは我がそう言っているということがある。
ですから、そんなものは間に合わないのです。
八万四千の教えと言いますが、一人一人の人にぴったり合わせようとすると、無数の教えが
なくてはならない。


念仏せよという教えは、我々にぴったり合うように、仕立て上げられているわけです。・・・・・

このようにお書きいただいています。

私にぴったりの教えであるお念仏、ひとごとではなく、この私のための教えを味わわせて
いただく毎日でありたいものです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、3月23日に新しい内容に変わります。