第691回 人間と動物の違い

 平成18年 4月 20日

 妙念寺 電話サービスお電話ありがとうございました。
神奈川県にある常光寺のご住職  鶴山 信行(つるやま しんぎょう)さんの
「人間と動物のちがい」 という文章に であいました。



 子どもの頃、父に 「 そんなことをしていると、犬や猫と変わらないじゃないか 」 とか、
「 畜生にも劣るぞ 」 といってしかられたものです。
「 冗談じゃないや、犬や猫と一緒にされてたまるか 」 と思っていました。

しかし、このごろ犬のすごさに驚くことがあります。
うちで飼っている北海道犬は十三歳になり、耳もずいぶん遠くなって、足もよたよたと
引きずるようにしています。
そばまで行って呼んでも聞こえないほどです。

それでも、犬はそんな自分の姿をぼやいたり嘆いたりすることがありません。
不自由になった老いをそのままに受け入れているようです。
そんな犬の姿を見ながら、自分の老後に思いを重ねてみるとき、
「 こいつはすごいなあ!」 と感心してしまいます。


さらに、うっかり夕食をあげるのを忘れてしまい、翌朝あわてて持っていくことが
ありますが、犬はケロリとした顔で尾っぽをふって迎えてくれます。
夕べのことは少しも根にもっていないようすです。
食べ物の恨みは怖いと言いますが、私にはそんな芸当はとてもできません。
不機嫌な顔をして、へそを曲げ、ふて腐(くさ)れて見せるでしょう。
あるいは意地を張って、食べずに抗議をするような愚かなこともしてしまいそうです。
なるほど、犬のほうが利口だなと、父の言葉を思い起こします。

またコイにも驚くことがあります。
池の中に平らな石があるのですが、その上に餌がのってしまうと食べられない
ことがあります。
その餌を見つけた一匹のコイが身をすり寄せて 何度か挑戦します。
そうすると、その波で餌が流れ落ち、そこにいたコイがすまして食べてしまいます。

しかし、それでも池の中は平和です。
「 それは俺のものだ 」 などと言って、人間のように争うことはありません。
取ったほうも取られたほうも何も気にしていないようです。
実に平和な顔をして仲良く泳いでいます。
自分のしたことにとらわれて自己を主張し、怒ったり、愚痴ったり、裁判をしたり
する人間が愚かしくも思えます。

芭蕉は 「 ものみな自得す 」 と 言っています。
なるほど犬やコイは自分の身に降りかかる出来事はどんな事でもそのままに
受け入れているのに、人間だけが自得できずに迷っているようです。
犬もコイも人間より達観しているようなところがあります。

しかし、彼らには恥や罪の意識はありません。
犬はどんなに破廉恥な行為をしても恥ずかしそうな顔をしないし、悪いことを
しても悔いたり悩んだりすることもないようです。

なぜ、犬には恥や罪の意識がないのでしょうか。
犬は悪いことをしたという思いをもたないからでしょう。
悪いことをしたという思いは教えによって知らされます。
つまり、教えがなければ悪いことをしたという自覚はなく、そのために
罪の意識も恥じる心も起こらないということになります。

作家の三浦綾子さんは 「 自己中心は 罪のもとだ 」 と言い、 「 自己中心で
あればあるほど、神を嫌う。神を見ようとはしない。神を無視してやまない 」 と
言います。
神を見ようとしないとは、自分を中心にして神の教えを無視してしまうと
いうことでしょう。

仏教でも末法 (まっぽう) の世には 人々の心から仏の教えがなくなると
いわれますが、それも、人間がますます自己中心的になるからでありましょう。
しかし、エゴの自己中心性を問わずに教えを無視するようになれば、
自分が中心になるために何をしても悪の自覚はなく、恥や罪の意識も
もてなくなるでしょう。
そうすると、人間は動物よりも浅ましいものになるのではないでしょうか。

親鸞聖人は 「 悪性 ( あくしょう ) さらにやめがたし 
こころは 蛇蝎 ( じゃかつ ) のごとくなり 」 (註釈版聖典617ページ)と
詠 ( よ ) まれています。
蛇 ( へび ) やサソリのような心とは、本願の大悲によって見抜かれた
人間の本性でありましょう。
ところが、その本性は自己中心の目によっては覗 ( のぞ ) き見ることの
できない心の暗い奥底に隠されたものであり、仏の教えを聞くことによって
初めて知らされるものです。
だから、教えによって自分もまた危うい本性をもつ身であることを
気付かない限り、悪の自覚ももてないことになります。
「 罪を罪と感じないことは最大の罪 」 ともいえるでしょう。・・・・・・・・


という文章です。
本当に  畜生にも劣る 生活をしていることに 気づかせていただき
たいものです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

      ※本願寺新報2005(平成17)1220日号掲載 (ホームページ用に体裁を変更)
                        作者肩書きは新報掲載当時のものです。