第692回 善 と 悪 

 平成18年 4月27日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
毎日のニュースを見ていると世の中は乱れ、悪の一色のように思われます。

善と悪について、仏教はどう受け取るのか、金子大栄先生の本を見ていましたら、
こう書かれています。


道徳や倫理の上からは、善悪を問題にするでしょうが、
仏教では、慚愧(ざんぎ)の心あるものを善といい、慚愧の心ないものを悪というのが
根本的なものです。


慚愧というのは恥じるという意味、慚愧の心を善根、慚愧の心なきを不善根と
いうのです。
したがって善とは何かということを明らかにするには、慚愧ということを
解釈しなければなりません。


親鸞聖人は、教行信証の中で、「涅槃経」をひいて、慚愧の説明を三つほど
しておられます。



第一に 慚とは、自ら罪をつくらない、愧とは他をして罪をつくらしめず、とあります。
慚も愧も同じことなのですが、その意味をあきらかにするために、慚と愧と一応分けて、
慚は自分が罪をつくらない。愧とは人に罪をつくらせないことであると。


たとえば、人が腹をたてたからといって腹立てるのはけいしからんと言わないで、
腹をたたせたのは、すまなかったと、かえってわがとがをおそれよ、腹をたたせて
しまったのは、こちらになにかすまないことがあったにちがいない、と考える。
これは善意の解釈であります。                     


すまなかったというその気持ちは、自ら罪をつくらないことであります。
腹立てるとはけしからん、おこる理由はないじゃないかというと、こちらは罪を
作る訳であります。


こちらの方ですまなかったと言ってしまえば、向こうの方も罪をつくらない。
こちらが怒れば、向こうも怒ったのがなぜ悪いかと、また向こうも罪をつくることになる。
だから善とは、いつでもおのれにたちかえる心である。と言ってもいいでしょう。


第二に、慚とは内に自ら恥じ、愧とは人に対して、その心を発露する、と言ってあります。
悪口を言われたことは、いかにも恥ずかしいと、そのように自分に恥じるこころが慚であり、
そして人に向かって発露する、すまなかった、申し訳けありませんでしたと、人に言葉で
表すところに愧の心がある。


心が解けていくには、言葉の表現が大きなはたらきとなる。言葉で表すというところに
人間生活の一つの意味があるわけでしょう。


第三の説明は、慚は人に恥じ、愧は天に恥ず、とあります。天に恥ずということは、
つまり法を尊ぶ心であります。
それは、おのれの道に恥じるということでなくてはならない。これに対して人に恥じるとは
世間の眼をおそれることでありましょう。


この慚愧のこころあるものを「人」といわれ、慚愧心なきものは「畜生」といわれる。
慚愧心あるがゆえ、父母あり、兄弟あり、慚愧のこころなければ、そこに、親子とか、
兄弟とか、夫婦とかいうものはなくなると説かれてあります。


仏教は、まずは自分の心を問うものです。
わが心を見つめてみると、見えてくるものがあります。
これも、南无阿弥陀仏のお念仏の働きにより、気づかせていただくものだと
思われます。


妙念寺電話サービス、お電話ありがとうございます。
次回は、5月4日に新しい内容に変わります。

         コマ文庫 金子大栄著 「念仏と人生」 より 部分的に抜き出しました。