第695回 願いの言葉

 平成18年 5月 18日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

言葉は難しいもので、同じ言葉を聞いても、受け取る人によって
大きく違って理解されるものです。


「学校」という言葉も、授業に出る、受験するなどと、生徒の立場で
理解をするのと、教える先生の側では、違ってきますし、親の立場だと、
子どもの教育をどうしたらいいだろうかという、また違った意味を
持ってくるものです。


その「親」という言葉でも、子どもは、自分の世話をやいてくれる、育ててくれる親、
お小遣いをくれる親、口うるさい親とか、子どもとしての受け取り方がある一方、
親の立場にたつと、子どもの幸せを願い一生懸命働く親、子どもの将来を
心配する親と、同じ親という言葉でも、それぞれの立場や経験で大きく違うものです。


また「年金」という言葉でも、年金を納める若い世代の大変さと、既に受け取っている
高齢者の場合、また将来受け取ることを考える立場など多種多様の意味を
持つものです。


 どうしてこういう話をするかというと、浄土真宗の「浄土」という言葉も、
「仏に成る」という言葉も、受け取り方によって、大きく違うということです。


お浄土という、阿弥陀さまの国を、極楽と理解して、自分の楽しみを受け取るところと
いう意味で理解してしまうことと、さとりをひらき真実の喜びを得る世界であるとの
受け取り方とでは、違いがあるものです。


仏に成るということも、自分がさとりを開くということにとどまらず、仏と成って
多くの人びとのために活躍できるイメージを持つこととでは、まったく違いが
出て来ます。


これは、大人を経験していない子どもが、大人のことを理解しようとしても、
なかなか難しいのとよく似ていますし、学校に入学することだけを目標として、
その後のことを思いつかないでいることともよく似ています。


 南无阿弥陀仏というお名号は、すべての人を救うために、あらゆる努力を
していただく、阿弥陀さまの大きな願いの言葉です。


その願いに気づかされてくると、阿弥陀さま、あなたのように成りたいと思い、
あなたの努力の万分の一でも励みますと口にすることの出来るようになる、
尊い言葉だと味わえます。 


 自分の為に、我が身を喜ばせることばかり考えている、子どものような
私たちと違って、多くの人びとの為だけにと働いていただいている、
阿弥陀さまという仏さまの尊い願いがこもった有り難い言葉なのです。


その南无阿弥陀仏を口にする生活を始めてみると、自分の側からの
一方的なものの見方でだけではなく、多角的なものの見方が出来るようになり、
見えないものが見えて来、気づかなかったことが気づきはじめてくるものです。

南无阿弥陀仏はそういう働きの言葉です。
人生に深みを増し、大きな喜びに気づかせていただく力を持った、
願いがこもった言葉なのです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、5月25日に新しい内容に変わります。