第696回 生涯を疑わない

 平成18年 5月 25日〜

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。

浄土真宗とは、どんな教えかということを、次のように表現してある文章に出会いました。
金子大栄先生の信心という本です。 かなり省略して ご紹介します。

人間同士が疑いあっているのが現状ですが、その疑いの心を信じあえるところに
引き戻すはたらき、それが大慈大悲の本願ということではないか。


本願の教えというものは、人間同士がいろいろなことがあって、疑ってみたり、
誇ってみたり憎んでみたりするけれども、本当はみな疑ってはならない、
疑うことのできないものであるという、そういう一つの願いがあって、
その願いが仏の願いとして感じられてゆく、だから仏の願いというのは何を私たちに
教えるかというと、人間同士よ、もっともっと心底深く手を取り合うて行こうではないか、
ということでなかったであろうか。


 本願を信じ念仏申すということは、結局、人間同士が疑い合うということは
間違いであって、ほんとうに信じ合うていこうとするところへ戻すはたらきが
如来の本願である、まことへ引き戻すはたらきがお念仏である。


 そして、それは自分の生涯も疑わないということでもあります。

母の胎内から生まれてお葬式を勤めてもらうまでの一生、その一生を
疑わないのであります。疑らないということは、ありがたい一生だということです。

つまらない一生であるとか、ばかばかしい一生であったとか、そういうような
疑いを起こさない。


あのときに親に別れて泣いた、このとき子どもに死なれて困った、けれども
よくよく考えてみるというと、それ全体として私としてはそうならなければならない
一生であったのである。


またそうであったということが非常によいことであった自分の一生涯を疑わない。
自分の一生涯を疑わないというその場所が仏のさとりというものであり、
お浄土へ生まれるということでなければならんと思うのであります。

ですからお浄土は一如無為、一如平等で、人間は別け隔てをしております
けれどもすべてはみな一つこころにならしめられる世界である。

こういってあることによって、その一如の光りに照らされて、人間の一生涯と
いうものはさまざまありますけれども、それがすべてよいことであったと、
最上無上の一生であったなあと、自分の生涯を疑わないというところに、
浄土教というもののありがたさがあるのでないでしょうか。 


 私がこういうふうに生きていき、こういうふうに人づきあいをしてゆくという、
その一生涯が疑うことのできない、疑ってはならない私の一生なのである。
ありがたい一生なのであって、というところ、それが信心というものでは
ないであろうか。



という文章です。

自分の生涯を疑わないことこそ、充実した素晴らしい人生だと思います。
それは、如来の願いをお念仏とともに受け取らせて頂いているからです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、6月1日に新しい内容に変わります。


   金子大栄著 信心  彌生書房 (新宿区中町18番)発行より部分引用