第700回 出る息 入る息

 
平成18年 6月 22日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

毎月の勉強会の最後に 拝読したご文章、「数珠章」の終わりに、


「まことにもって人間は、出ずる息は入るをまたぬならいなり、あいかまえて
油断なく仏法をこころにいれて、信心決定すべきものなり。」とありました。


また、歎異抄には、「ひとのいのちは、出ずる息入るほどをまたずしてをはる
ことなれば、・・・」ともあります。


私たちは、これからまだ10年、いや20年は、大丈夫、まだまだこのいのちは
尽きぬものだと思って生活しています。


癌が発見されて、余命何年だ、何カ月だと聞かされた人があると、さぞかし
辛いことだろうと同情しても、自分のこととしては、受け取ってはいません。


自分だけは、まだまだ大丈夫と思って生活しています。

ところが、息を吐き出し、次に必ず吸い込むことが出来るのかどうかは、
実は疑わしいことなのです。


私は自分の心臓や肺が頼まれもしないのに一生懸命働いてくれていることも
忘れています。しかし、いつ何時止まってもおかしくないのが真実です。


何年後、何カ月後、何日後ではなく、今日今、この瞬間に、息が止まっても
おかしくないのに、それに気づかないで、のんびりとした生活をしています。


とともに、この私を生かすために、多くの力を頂いていることも、気づかずにいます。

心臓を動かし肺を働かすための原動力は、私が頂いている食べ物をはじめ
多くの力のお陰です。


動物も植物、水も空気も、太陽もあらゆるものの力によって生かされていることに
気づかず、誰の世話にもならず一人で生きていると思う毎日を送っています。


そう考えると、今日一日ありがとうございました。という生活ではどうも不充分で、
この一息、この一息、御蔭様で生かしていただいています。


何のお返しもできませんが、せめて私の出来ることを精一杯取り組ませていただきます。

それが見当たらない時には、阿弥陀様が与えていただいた南无阿弥陀仏を
口にしながらの日ぐらしさせていただきます。


報恩感謝の生活が出来ないこの私に、南无阿弥陀仏を与えて頂いています。
そのお念仏を口にさせていただきます。


どなたに何を、どうしてお返ししていいのか分からない私、誰にどう感謝すれば
よいのか分からない私、報恩感謝のことばを、南无阿弥陀仏を口にして聞かせて
いただく生活が出来ること、それこそがことによると、一番の、最も大きなお返しに
なるのではないかと、思いました。


朝晩のお念仏だけではなく、道行くときも仕事の最中も車の中でも、いやいや出る息、
入る息の一息ごとにお念仏、南无阿弥陀仏を味わわせていただく人生こそ、
最も有り難い喜び多い人生なのかもしれません。


そしてそれこそ阿弥陀さまが、お釈迦さまが親鸞さまが、先だった先輩たちが
最も喜こんでいただく生活であると思えます。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、6月29日に新しい内容に変わります。