第704回 誰のために

 平成18年 7月 20日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

僧侶の方で、旅行好きの方があります。仏教の発祥の地であるインドとか、
仏教が伝わってきた中国とか、お釈迦様の時代の仏教を今に伝えている
東南アジアの国々にです。


そこには現代の我々が気づいていない教えの原点があるのでしょうが、
交通も宿も環境も決してよい状態ではないのに、繰り返し出掛ける方に
頭が下がります。


便利さに慣れ切って、自分の思いどおりにならないと気が済まない私には
決して出来ないことです。


 ところで、同じ旅行でも観光地やおいしい料理を食べる楽しい旅行もあります。

目を楽しませ、舌を、心を、我が身を楽しませ、日常から離れて、知らない違った
環境の中に身を置くことで、癒されたり新たな発見があったりするためでしょう。


好きな人は、頻繁に出掛ける方があるようで、春休みだ、夏休みだ、
年末年始だと、海外へ出掛ける方の多いことは、そうした現れだろうと思います。


その旅行も両親を招待してとか退職して妻に感謝するためとか、子供たちへ
知らない土地を見せたいとか、自分だけの楽しみではなく誰かのためにという
旅行も多いと聞きます。



 遊びというものは自分自身が楽しむために行動するのでしょうが、どこか
後ろめたさを感じる世代と、感じない世代があるように思います。


そこには、人間は自分だけの楽しみのために生きることは、余り良くないことだとの
思いがあるのだろうと思います。


自分だけの喜びは瞬間的で長続きがせず、誰かの喜びを目にすることの方が
より大きな喜びであると感じるのも確かです。


 ご文章の末代無智章には、「こころをひとつにして・阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、
さらに余のかたへこころをふらず・一心一向に仏たすけたまえともうさん衆生は・・・・・」
「かならず阿弥陀如来はすくいましますべし」とあります。


救うとは、やがてお浄土へ生まれさせ、自分と同じ働きの出来る仏のさとりを得させ、
活躍することの出来る能力を与える。


そのことを信じることが出来るようになる、「信心」が与えられると、今この場所で仏の
仲間になるということですが、これは何を意味しているのでしょうか。


私は自分のことだけを考えて、この苦しみや悩みや不自由さから逃れたいと
願っていますが、救われるということは、やがて将来お浄土で完全にその苦しみが
なくなるものの、今ここでは、自分のことよりも「衆生」のこと、一人残らず全ての人のことを
心配することが出来る仏の仲間になるということです。


自分のことだけしか考えることの出来ないこの私に、仏と同じように自分以外の人の
ことを心配し努力することを目標にすること、それが、本当の喜びだと教えて
いただいているのだと思えます。


念仏に生きるということは、自分のことだけを考える私が、我が孫に心を配るように、
全ての衆生を心配することが出来るのが、本当の喜びであると気づかせていただく
ことではないかと味わえます。


幸せは、自分だけの、我が身を楽しませるものではないと、気づかせていただくのが
お念仏の働きではないでしょうか。


それが分かると、今わたしがすべきことが少しは見えてくるようです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、7月27日に新しい内容に変わります。