第709回 行き先変更

 平成18年8月24日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

自分がやったことの責任は自分で取らねばならない。
これは人間のルールです。


人に苦しみを与えれば、それと同じ苦しみを自分が受け取らねばならない。
こうすれば不公平でなくなります。


しかし現実は自分が受けた被害は忘れることは出来なくても、他人に与えた
苦しみや不利益は、まったく気づかないことが多いものです。


人間同士でもこうですから、他の生き物や、近くにいない、まったく面識のない人へ
与えた害など、少しも気づいていないのが現実です。

煩悩具足の凡夫という表現には、自分のことだけしか考えず、他の人に
悲しみや苦しみを与えても、気づかないでいる人間の本質を、表したものだと思います。


生きている間に、その罪を償うことが出来ないことが多いので、地獄や餓鬼や
畜生という将来受けるであろう償いの場を、昔の人は、理解していたのだと思います。


どう考えても、地獄にしかいくことの出来ないということを、
親鸞聖人は、「地獄は一定すみかぞかし」とか、「曠劫多生のあひだにも、
出離の強縁しらざりき」とか、表現していただいたのだと思います。


どんな努力をしても地獄以外自分が行くことの出来る世界はない。

その凡夫を、なんとしても救わねばならないとの阿弥陀如来の本願力に、
出会えたことは、何にも増して大きなことです。


自分の人生を振り返り、自分が生きていくために奪った命のことを考えてみれば、
とても、返しきれない多くの罪を作っている現実があります。


その自分に気づいた時、苦しみの世界から逃れることが出来るということの意味は、
とても強く大きなものだと味わえます。



 このままでじっとしておれば、これ以上悪くはならないというのではなく、
もっともっと苦しむべきこの私を、その苦しみから逃れさせ、喜びの世界へ生まれさせて、
仏と同じ悟りを開かせ活躍させるという、如来の願いの有り難さが、感じられてきます。


南无阿弥陀仏は、この私が地獄へまっしぐらに向かっているのを、お浄土へ
方向変換させていただく、救いの言葉、そのことを、お聴聞を繰り返しつづけて、
うなずき、もっともっと喜んでいいことだと、もっともっと感謝していいことだと、
感じられてなりません。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、8月31日に新しい内容に変わります。