第713回 念仏と呪術

 
平成18年9月21日〜

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本願寺から出版されている宗報という月刊誌の冒頭、「聞思録」に、

「念仏と呪術」 という文章がありました。

勧学の稲城選恵先生が書かれたものです。

 わが国の知識人やマスコミに関係する多くの人が、
 ーー念仏と呪術、正信と迷信−−−を混同して同じものと見ているようである。


宗教と名前がついていれば、すべて同格であるように考えている。
この誤解は明治時代に制定された信教の自由という言葉をはき違えたことに
よるといっていいだろう。

信教の自由とは 「何を信じてもよい」「何を信じなくてもよい」ということではなく、
宗教を批判する自由をさして言ったものと考えられる。


 批判するには批判力が必要であって、この批判力を一般民衆に伝えたのは
蓮如上人の 『ご文章』 である。


この 『ご文章』を日夜、拝読する人には自ずからこの批判力が
養われていたのである。


この呪術との境目は、自からの欲望で掴むか否かによる。たとえ真実であっても、
自らの独断と偏見による欲望のとりことなったものは真実の座から滑り落ちる。

したがっていかに念仏しても、自らの欲望や理性分別のとりことなると、
呪術化してしまうのである。


この朱紫の区別を明らかにしたのが 『教行信証』 一部六巻の内容ともいえる。
というのは、人間にとって死の壁の前にはいかなる科学技術も経済力も何らの
支えとならない。ただ絶望と孤独と不安とのみが残されるのである。

そこに真実を掴もうとするはからいが生じる。
この壁を誤魔化すのでもなく、逃避するのでもなく、誰でも、いつでも、
どこでも超えていく答えがすでに届けられている。


往生浄土の大道が開かれているのである。
それ故、親鸞聖人の生涯はほんとうの生きる答えを明らかにされたものと
いえるのである。・・・



このように書かれています。

正信と迷信、念仏と呪術をはっきりすることのできる人生でありたいものです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、9月28日に新しい内容に変わります。

      平成十八年九月号 (第479回) 宗報、  念仏と呪術 稲城選恵著より