第714回 新たな価値観

 
平成18年 9月28日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

こんな文章に出会いました。

 親鸞聖人は、アミダ仏が一切の いのちあるものに安らぎを与えたいと起こした願いを
「本願」(真実を体得した仏の根本中心の願、第十八願)と言いました。


浄土真宗は、この本願を中心とするところから、一般に本願の宗教と言われます。

私たちの本山を本願寺というのも、このような理由からなのです。

 その本願を聞き、問いつづける いとなみが浄土真宗の出発点であり、
行きつくところなのです。


本願はアミダ仏の、私たちに対するいのちの呼びかけです。日常に埋没して、
目さきのことばかりに夢中になって走り廻っている、私たち人間に対する深い
呼びかけであるといってもよいでしょう。


真実(ほんもの)の人生を求めよ、深きいのちにめざめよ、というアミダ仏(真実)の
呼びかけです。



 私たちが、その呼びかけに対して、心を開くとき、その呼びかけが、
私の人生にとってなくてはならない、尊いものであるという「うなずき」が生じます。
これを親鸞聖人は「信心」と呼びました。


 ここに至って、今までの生き方、人生、いのちの方向が、いかに誤っていたか。
あぶなっかしいものであるか。ということが明らかになります。

価値観の変革 (今までなくてはならないもの、これさえあればと思っていたものが、
幻想であったというめざめ) といってよいかと思います。


 私は、信心とは願いをかなえてもらうために、一心不乱に仏に祈り求めることではなく、
そのような自我充足 (欲望をみたす)の心を、うちたてて、善しとしている私自身の
「あさましさ」「おぞましさ」を気づかせてくれるものだと言っています。


 その意味で 「信心」 とは世俗の価値観が根底からつき崩されて、新たな価値観が
恵まれる世界であるといってもよいかと思います。


 つまり「信心」とは今まで役に立つと思っていた さまざまなことが、役に立つどころか、
いのちそのものの問題(生老病死)を見失わせるものであった、という事実に
気づかされることでした。


 そのことへの気づきは、同時に、自分自身のいのちにとって、なくてはならないもの、
知識・教養・名誉・財産よりも大切なものへのめざめをうながします。
親鸞聖人はそれを「智慧」といいあてたのです。


「智慧」の獲得こそ、仏法の中心課題です。  ・・・・・・・・・

そして、その智慧は、お聴聞することにより、得られるものだと思います。

 妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、10月5日に新しい内容に変わります。

    

    百華苑刊  親鸞聖人の手紙に学ぶ
      山崎龍明師著より 一部抜粋