第722回 自然法爾ということ

  平成18年 11月23日〜

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親鸞聖人が門弟へ出されたお手紙をご消息といいます。
そのご消息を解説された本を拝見しておりましたら、次のようなところがありました。


86歳の12月14日に書かれた、「自然法爾の事」のお手紙を解説された一部分です。
『 自然の前では自力は無効 』 という、小見出しがあります


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 まず初めの節で、自然と法爾の文字について解釈されます。
自然の語は日常のことばで、あらためて説明するのが困難なほどですが、
文字どおり読めば 「 おのずからそのようになる 」 ことで、人為的なもののない状態、
あるいはいかなる人為をもってしてもしょせん無駄で、落ち着く所に落ち着く
という意味をもっています。


法爾は耳なれない語ですが、爾と然とは同義ですから、法然とも書けることばです。
すなわち 「 法則どおりになる 」 という意味です。


したがって自然・法爾と文字はちがいますが、内容的には同義です。
しいて語感からうける感じをいいますと、自然の語は、どんな抵抗も工作も
役に立たない大自然の躍動感を思わせます。

また法爾の方は時間・空間を超越して、いつでも、どこでも、だれの上にでも働く
普遍性を感じます。


 もちろんここで自然・法爾といわれるのは、いわゆる自然現象の法則や働きを
いうのではなく、如来の本願の働きを自然といい、それが法則として歴史を超え、
社会をこえ、善悪のちがいをこえて機能するのをいわれているのです。

その本願の働きの前では、私どもの人為的な思慮分別はまったく役にたたない
のであります。そのことを繰り返しくりかえして指摘されるのであります。


 たとえば海水は人体よりも比重が重いので、人は海水の中では浮くようにできています。
しかし泳ぎをしらないものが海に入っても、浮くどころかかえって水の中に沈んでしまいます。
なぜでしょうか。沈むまいと手足をばたばた動かしながら、かえって必死で海水のもつ
浮力に反する運動をしているからです。

その運動がしょせん無駄と体得でき、指導を受けて海水の上に、力んだ力をぬいて
両手両足を投げ出してみれば、自然に浮力の法則のままに、身体は海面に浮くのです。
そしていったんその法則をつかんだならば、法則にのっとって自由に泳ぎ回ることが
できるのです。


これは比喩であります。

阿弥陀仏の本願の法は、小ざかしい自力の思いを投げ出して、法にすべてをまかせたら、
法のもつ自然の働きで必ずさとりの岸に到達できるのです。
それを聖人は自然といい、また法爾と表現されたのであります。・・・・



  と続きますが、
その一部分を抜き出しました。頭で考えると海水に身体が浮くことはできません。
しかし、比重の軽い人間は浮くことが出来るのです。
自転車も一輪車も、倒れるのが当然です。
しかし、習うことで倒れずに乗りこなすことが出来るものです。


本願の教えに出合うことで、南无阿弥陀仏に出合うことで、この私の人生は溺れる
こともなく倒れることもなく、苦しむこともなく悔やむこともなく、最も素晴らしい方向へと
進むことが出来るのだと味わいました。

それが 南无阿弥陀仏の教えであると。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、11月30日に新しい内容に変わります。


   聖典セミナー 親鸞聖人御消息   霊山勝海著  本願寺出版社発行より