第725回 有り難い 尊いご縁
平成18年 12月 14日〜
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
ところで、親鸞聖人がお書きいただいた「教行信証」の最初、序文には、
真実の経といわれる、「仏説無量寿経」ではなく、実は「観無量寿経」の
尊いご縁が取り上げてあります。
わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、
渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにも
さまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。
ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして
頻婆娑羅王を害させたのである。
そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提希をお導きに
なって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。
これは、菩薩がたが仮のすがたをとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうと
されたのであり、また如来が慈悲の心から、五逆の罪を犯すものや仏の教えを
謗るものや一闡提のものを救おうとお思いになったのである。
よって、あらゆる功徳をそなえた名号は、悪を転じて徳に変える正しい智慧の
はたらきであり、得がたい金剛の信心は、疑いを除いてさとりを得させてくださる
まことの道であると知ることができる。
このようなわけで、浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、
愚かなものにも往きやすい近道なのである。
釈尊が説かれたすべての教えの中で、この浄土の教えに及ぶものはない。
煩悩に汚れた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、行に迷い信に惑い、
心が暗く知るところが少なく、罪が重くさわりが多いものは、とりわけ釈尊のお勧めを
仰ぎ、必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、ひとえにこの行につかえ、
ただこの信を尊ぶがよい。
ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの
信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。
思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。
もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、もとのように果てしなく長い間
迷い続けなければならないであろう。如来の本願の何とまことであることか。
摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。
世に超えてたぐいまれな正しい法である。この本願のいわれを聞いて、疑い
ためらってはならない。・・・・
とお述べになっています。
観経が説かれる尊い、ご縁がなければ、こうしてお念仏の教えに遇えなかったで
あろうとの、深い喜びのことばであると味わいます。
まさに尊いご縁であったと、お念仏とともにありがたく喜ばせていただきたいものです。
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、12月21日に新しい内容に変わります。
教行信証 現代語訳 序文より 発行 本願寺出版社