第727回 遇 う
平成18年 12月 28日〜
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
年賀のご挨拶に何か一字をと思っていましたが、
親鸞聖人独特の「遇う」という言葉を思いつきました。
普通、あうというと、出合うとか、愛しい人に逢うとか使いますが、
お念仏の教えにであえたことを、遇うという言葉をつかっておられます。
例えば、教行信証の最初のところで、遇獲行信遠慶宿縁 ・・・
(ああ弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。)
たまたま行信を獲ば 遠く宿縁を慶べ。というところがまず出てきます。
現代語訳では、ああこの大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえる
ものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。
思いがけず この真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁を慶べ。
とあります。
出合うことが、たまたまであり、あいがたいものに偶然にあえたのだと使われています。
そして、同じく総序には、
よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、
遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた。
と慶びの言葉としてお書きいただいています。
この遇うの字は、七高僧の天親菩薩もお使いになっています。
「観仏本願力 遇無空過者」と浄土論にあり、それを親鸞聖人は
『この文のこころは 仏の本願力を観ずるに、まうあうて むなしく すぐる ひとなし、・・・ 観は 願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり。
遇は まうあふといふ、まうあふと 申すは、本願力を 信ずるなり。』
と一念多念証文に、お述べいただいています。
おなじあうでも、出合うのは、両方が対応予想的場において成立する。
それに対して、出遇うの遇うは偶然を意味する、全く予期しない会い方であり、
しかも予期しない偶然であるが、相手側からすれば必然的な立場にある。
と説明していただいた方があります。
人間である私には、偶然であるものの仏の側からすれば、必然であったという、
他力ということが、仏の方からこの私に働きかけていただいたということを、
強く述べておられるのでしょう。
この私が、この教えに出合えたのは、お念仏に出合えたのは私にとっては
偶然であっても、多くの先輩や仏の働きがあったのだと味わえると、
とても有り難いもの。
そして遇えることで、この私の人生は、光り輝き、慶びおおいものにさせて
いただきましたと、心から慶ばせていただきたいものです。
これがお念仏に遇えたお陰であると。
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、1月4日に新しい内容に変わります。