第738回 ご縁をいただく

 
平成19年 3月 15日 〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

薦められて、小川一乗さんの本を読んでいます。
「仏教から見た往生思想」と言う本の中に、こんなところがありました。


よく、「ご縁をいただいて生かされている」ということを言われる人が
おられます。しかし、ご縁をいただいて生かされているというのは、
すこしまぎらわしい理解です。

それはどうしてかといいますと、ご縁をいただくというのは、
ご縁をいただく 私がまずいて、そしてご縁をいただくということに
なるのでしょう。


ところが釈尊は、私は無い、無我だと説いておられるのです。
だから、この私がご縁をいただいて生かされております。ありがとうございます
というようなご縁は仏教ではないのです。


みなさんのお世話をいただいて、生かされておりますというようなことは、
仏教の教えではないのです。


私が先にいて、ご縁をいただいて、生かされているということであれば、
欲たかりの私ですから、いいご縁だけ欲しいでしょう。


悪いご縁は要らない、都合の悪いご縁も要らないでしょう。

自分さえよければいい、自分さえ幸せであったら、人のことはどうでも
いいと思って生きているのが私たちです。


そのような私がご縁をいただきたいと思ったら、いいご縁だけ欲しいでしょう。
病気が欲しいと思う人はいないでしょう。
ですから、ご縁をいただいて生かされていますというのは、厳密にいうと
仏教ではないのです。



 二月の節分に豆まきをします。
福は内、鬼は外、この私が先にいれば、かならず福は内で、鬼は外になります。
私たちは自分の都合のいいものだけが欲しい。
都合の悪いものは要らないといって生きている。
だから、鬼は外で、福は内ということになる。私たちはそうやって生きている。


ところが、釈尊は、ご縁をいただいて生きているとは説いていないのです。

ご縁が私となっていると説いている。
福も内、鬼も内で、福と鬼が私となってくださっている。


私がご縁をいただいているのではないのです。
ガンジス川の砂の数を超えるほどのご縁が、このただいまの私となって
くださっている。だから、ご縁以外に私がいるわけではない、つまり
無我なのです。


福も内、鬼も内、福と鬼が私となってくださっている。
そういうのが釈尊の説かれた仏教です。


 だから、私という欲たかりが先にいて、ご縁をいただいて生かされております、
ありがとうございます、というようなものは、仏教ではない。


そのような感謝は都合の悪いご縁に出遇えば愚痴に変わります。
都合のいいご縁だけを喜び、都合の悪いご縁に出遇えば、その感謝は
愚痴に変わります。


すべてのご縁が私となってくださっている。だから、そのご縁をすべて
取り払っていったら、私はなにもない。それが生かされているということなのです。


私はみなさん方のお世話になって生かされているというような、
そんなレベルの事柄ではないのです。


そういうように、ご縁がこの私のすべてである。
ご縁以外に、私といわれるものは、ちり垢ほどもないのに、こうしてただいまの
この瞬間の命を賜っている。だからこそ、もったいないな、これを精いっぱい
生きなければという心が起こってくるのでしょう。


あした目が開かなくてもいい、精いっぱい生きようという気持ちになる。
かならず目が開かない日が来るわけですから、それでいいではないかと、
自分の命を引き受けていけるようになる。


そういうことが釈尊の説かれた縁起とか無我ということなのです。

それが大乗仏教になりますと、すこし表現を変えて、すべてのものは
空(ゼロ)である。
すべてはゼロから生まれているということになる。
だから自分がゼロであることに目覚めようという促しが、智慧のはたらき
である慈悲として展開されるのが本願であるというのが基本です。

 こういった文章です。ごく一部分だけを抜き出しましたが、仏教でいう空とか
無我ということが、はっきりと味わえた気持ちです。


どうぞ、みなさんもこのご本の全文にふれていただきたいものです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、3月22日に新しい内容に変わります。
  
         
仏教からみた往生思想 法蔵館発行 小川一乗師著作
            「本願に呼び覚まされて無我を知る」より


         


           私も一言(伝言板)