第740回 照らされている

 平成19年3月29日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

小川一乗さんの本を読ませていただいていますが、こんなところが
ありました。


 普通の宗教は、自分が修行して、立派な人間になって、人を照らす
人間になる。

ところが、仏教は違うのです。

照らされている自分に目覚めていく。
それが真実の仏教なのです。

自分が人を照らすのではない。照らすことができるのは、仏だけです。
人間が人間をてらすことなんかできません。
仏に照らされている。

「照らされている自分であった」ということが明かになった。
照らしたつもりがすでに照らされていたという世界が見えてくる。
それが念仏の世界なのです。


ですから、「数限りないほどのご縁が私となって、ただいまの瞬間の私が
起こっている」という。
釈尊が説かれた道理を聞いた大乗の菩薩たちは、もっと深くいただいています。


 「阿弥陀経」に「六方段」というのがあります。東、南、西、北、下、上の世界に
ガンジス河の砂の数を超える諸佛がましまして、そして阿弥陀如来を讃嘆されて
いるという内容です。あれをどういただくか。大乗の菩薩たちは、どういただいたか。

「ガンジス河の砂の数を超えるほどの諸佛たちがましまして、この私となって
くださっている」これが菩薩たちのいただきです。


無量無数のご縁が私となっているという釈尊の道理としての説法を聞いた、
大乗の菩薩たちは「ガンジス河の砂の数を超えるほどの仏さまたちがこの私と
なっている」と受け取ったのです。
自分の命の尊さ、命の喜びに目覚めていけばいくほど、照らされている
光の世界が開けてくる。
仏の世界は光の世界です。・・・



ただ私と大乗の菩薩たちとの大きな相異は、私は今この瞬間に光を見ていますが、
不都合な瞬間や、悲しい瞬間や、辛い瞬間には光を見ることなく暗い世界に
身を置いてしまいます。

しかし大乗の菩薩たちは如何なる瞬間においても「命あればこそ」と、
そこに光を見ているのです。
これは大変な違いです。そういう世界が仏教によって明かにされていく。
そういう教えが今の人類にとってどれほど欠けていることか。


「俺が、俺が」「私さえよければいい」という我執の心を打ち破っていくのが 
仏教、始まって以来の歴史です。 ところが、その我執がいいことだと肯定されて、
今日の世界を作り上げてきたのです。


しかし、その我執は無明です。
それを打ち破っていく一番の基本は、命は平等であるという教えに促されて、
命を連帯して生きるということです。そういうことが基本にあるのです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、4月4日に新しい内容に変わります。

     法蔵館発行     小川一乗著    いま人間を考える    命の尊さと喜び 〜


         


           私も一言(伝言板)