第745回 見方 考え方 味わい方

  平成19年 5月3日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
毎月、本願寺から発行される大乗という本に、こんな文章がありました。

滋賀県の報恩寺のご住職、藤実無極さんの「見方、考え方、味わい方」と
言う文章です。


 いつも「人間に生まれてよかった」と味わっています。
六十五年もの間、この世を生かさせていただいています。

終戦から六十余年、貧しく、みんなが苦労した昭和二十年代、あるいは
三十年代、子どもの頃から青年時代も余裕はありませんでした。

汽車に乗るのがうれしく、トンネルに入ると車内は煙がもうもうと漂い、
すぐ窓を開けて煙を車外へ。
トンネルが多い山陰線では、窓側に座った人は窓の開け閉めに追われます。
石炭の匂い、まだ珍しかった車の排出ガスの匂いを、よい匂いだとかいで
喜んでいた子どもの頃、小川の水を平気で飲み、呼吸器やおなかを痛める
こともなく、子どもたちは元気に野山を飛び回っていました。

とても今では想像もできない五十年前の日本でした。
そのおかげで相当に免疫力が高まったのかもしれません。


 食べ物をはじめ、飲み物や空気にいたるまで、あまりにも神経質に
なりすぎて、かえって心配です。
これで長生きできるだろうかとさえ思ったりします。

私の場合は体力もそうですが、精神面を鍛えられたように思います。
厳しい父親でしたが、反抗はしません。
というより許されなかったようです。
本堂や便所の掃除、庭掃き、おつとめ(勤行)の練習をさせられました。
振り返ってみますと、能力(学力)より、精神、考え方、努力することを
教えられたようです頭がよくても、考え方が間違っていると大変な
ことになります。


身体の健康(姿勢)とともに、心の健康をもっと認識したものです。

 中略

 人間、人一人に六十兆を超す膨大な数の細胞が働いてくれているそうです。
これらの一つひとつを目にすることはできませんが、私たちが気のつかない
ところで、それぞれ役目を果たしていてくれています。

しかも何のお返し、お礼も求めずに、ただ黙々とです。
体中に張り巡っている血管、そして臓器、一度も表に出ることもなく、
それぞれが役割をまもって働いてくれています。
自分の身体に、今やっと心からお礼を申しています。


 それと同じように、私たちは表面に出ている身体のことをいのちと言っています。
しかし、いのちを生かし続けているはたらきは、仏さまではないでしょうか。
もっと身近に受けとるとすれば、亡くなられた親、祖父母、ご先祖と言えないでしょうか。
死んだらおしまいどころか、この私を大いに生かし続ける側に立場を変えて、
見護っていてくださるのでした。

一本の草を引き抜くと、相当無数の長い根、短い根がついています。
目に見えないところで、表に出ることもなく、ひたすら栄養分を送っていたのです。
思わず「ごめんね」と言いながら・・・。


 動物も、植物も一つのいのちを生かし続けていくために、ありとあらゆるものが
支え合い、助け合っていることがわかります。
このように考えてみますと、身の回りには、無言で私たちに訴えているものがあります。
それに気づくか、見逃すかで違ってきます。


妙好人・因幡の源左さんが、刈り取った草を牛の背中に乗せて家路につく道中で、
気づきました。
そうだ、この私の罪も障りもすべて引き受けて立っておられる仏さまがおられることに、
牛によって教えられたのです。

そこに「牛ぼとけ源左」と言われるゆえんがありました。
源左さんが「ふいっと、わからせてもらったいのう」と述懐しています。
「ああ、そうだったか」と気づくことがよくあります。それが喜びや楽しさ、
豊かさにつながっていきます。

そんなところから、ものの見方、考え方、味わい方を学び、知っていただければ、
と念願いたします。



という文章です。

気づくか、見逃すかで、私の人生は大きく違ってくるのだと思います。

どうぞ、味わえる豊な人生のために、お聴聞くださいますよう、こころより、
願っています。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、5月10日に新しい内容に変わります。

     本願寺出版社内  大乗刊行会  第59巻 第5号 通巻684号より

        みほとけとともに 見方、考え方、味わい方 より 一部分転載
                   滋賀県報恩寺住職 藤実無極師


         


           私も一言(伝言板)