第747回 いのちの願い

 平成19年 5月17日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました、
教務所の売店で目に入った本を求め 読んでおりましたら、
次のようなところがありました。


藤田徹文さんの「いのちの願い」という本です。


「信心」というのは、けっして、わからないけど、
考えることを放棄して信じておこうということではないのです。


私たちの考えを超えた、もっと広い立場でものを見ていこう、
そして、本当のものに目覚めていこうというあり方です。


信心を「信じる心」と読むから間違うのです。

浄土真宗では、信じた私の心を信心とは言わないのです。
「信心」の心は私の心ではありません。

先人は「信心をまことのこころと読むからは、凡夫の迷信にあらず」
と教えてくださいました。


迷信というのは私たちの迷い心。その時その時、都合のいい方に
行ってしまうあり方を迷いというのです。


 ではいったい「信心」という時の心は何かというと、
親鸞聖人は「この心は如来さまのお心」であると教えて下さいました。


その如来さまの心に疑いようがなくなった状態を「信心」というのです。

「疑いようのない状態」を「無疑」と言います。「信」は、疑うな 
疑ってはいけないと、知性の放棄をせまるものではありません。


 知性を放棄して「信じています」というのは思い込みです。

思い込みはけっして信心ではありません。
多くの宗教には、思い込みに近いような信心があるようです。
「一生懸命に信じなさい」と「間違いないと思い込みなさい」
という宗教です。


そして多少揺れると、さらに一生懸命自分自身に思い込ますために
熱をあげて、おもいこむのです。

だから、ものすごく熱心に、ものすごく熱をあげるという宗教が
あります。


浄土真宗はそう熱をあげなくてもいいのです。

阿弥陀さまに間違いがないのですからゆったりしたらいい。
あんまりキュッとなると、油断したら迷いが出てきます。

迷わないようにと思って一生懸命自分に言い聞かすのでしょう。
朝晩、一生懸命にお勤めして、「そう思わないといかん、
そう思わないといかん」と自分自身に思い込ませる。

しかし、なかなか思い込めないのが人間です。
それで「信じられません」ということになるのでしょう。


浄土真宗の信心は疑いようがなくなることなのです。
「疑え」といっても疑いようがなくなったと言うことです。
大きな「いのち」に疑いようがなくなるのが「信心」です。


どうして疑いようがなくなるのかというと、本尊の姿を通し、
南無阿弥陀仏のみ名を通じて、色もない、形もない、けれども
間違いなく、わが「いのち」の背景にある確かなものに出遇うからです。

出遇ったら疑いがなくなります。


だから、浄土真宗は「信じなさい」と言わないのです。
信心が大事ですが、「信じなさい」とは言いません。


では、どうしたら出遇えるのか。

色もない、形もないものとの出遇いは、この身を通して、
聞いていくしかないのです。
この身に確かな「南無阿弥陀仏」のよび声が聞こえるままが
阿弥陀さまとの出遇です。


何に出遇うのかというと、如来さまの心。もっと言ったら、わが
「いのち」を支えてくださる、「無量寿」・「無量光」の世界に
疑いが晴れた状態が信心です。


確かなものに遇えば「信じてます」と言わなくてもいいのです。

「なんまんだぶ・なんまんだぶ」とそのままで喜べる世界が
「信心」の世界です。



            法蔵館発行 いのちの願い  歎異抄講話1 より

         


           私も一言(伝言板)