第753回 他力ということ

 平成19年 6月28日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

金子みすゞさんは、三歳で父親を亡くして以来、篤信な浄土真宗の家に育ち、
特に祖母とともに二十年間は朝晩欠かさずお仏壇にお参りしました。


  お仏壇

   朝と晩とに忘れずに、私もお禮をあげるのよ。
   そしてその時思うのよ、いちんち忘れてゐたことを


と詠んでいます。

このお礼をあげるということは仏に対する祈願ではなく、念仏行者としての
仏恩報謝の営みであります。


また、浄土真宗の他力ということを如実にあらわした詩に、代表作といわれる
「蓮と鶏」という詩があります。


   泥のなかから 蓮が咲く。
   それをするのは蓮じゃない。卵のなかから鶏が出る。
   それをするのは鶏じゃないそれに私は気がついた、
   それも私のせいじゃない


  と詠っています。

この詩を詠んで感じることは[泥のなかから蓮が咲く、卵の中から鶏が出る]
ということは誰でも知っています。
しかし、みすゞは、それをするのは蓮じゃない。卵ではないと否定しておいて、
その事に気がついた。

その気がついたことも私のせいではないと全面的に否定し、仏智の働きによって
気づかしめられたのだと絶対肯定の道へと展開していく、この論理は、
浄土真宗の「他力」の考え方と全く一致するところであります。


「他力の生活」(宮城顕 師 著)に

「親鸞聖人によって教えていただいた生活は他力の生活、他力という言葉で
教えられています。
しかし、ほとんどの者がこの他力ということが、自分以外の力、外のものの力を
当てにしている。それにすがって生きることのように考えられる。

だから他力本願じゃ駄目だ、自力でなくちゃならんということがよく言われるのです。
けれども親鸞聖人の言われる生活というものは、そんなものじゃない。

そんな他の力を当てにして、生きるようなら、それこそ畜生の生き方でしかないでしょう。
いつも回りにもたれかかり、まわりにすがって生きているものが畜生で、自分で責任を
もち自分を 身を粉にして働くものではないいつも回りのものをあてにする生き方で
しかないでしょう。


そうではなしに、他力の生活というのは、今こうして私を生かして頂いている。
生きているということに大きな不思議を感じる。大きな不思議を感じる所に開けて
くる生活であります。


他力の生活は努力しないのではなく、努力出来ることを喜ぶ生活なんです。
実際に努力出来るということは、実に大きな恩徳です。

意志さえ堅固で力さえあれば何でも出来ると思いますが、よくよく考えてみると、
私が努力出来るということは、大きなお蔭なんです。」 と。・・・・・・ 


お念仏が口から出ること、お仏壇にお参りできること、これも大きなお蔭だと
味わわさせていただきたいものです。         


妙念寺電話サービス、お電話ありがとうございました。
次回は、7月5日に新しい内容にかわります。  


       探究社発行 よろこび、2006年 第94号姫路龍正師著より


         


           私も一言(伝言板)