第756回  お掃除

 平成19年 7月19日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

今年は 水不足になるのではないかとの噂をよそに  長雨 大雨で 
例年以上 長い梅雨だったように 思います。


お寺の門の前の駐車場も 雨のために しばらくの間は お掃除を
していない
 ことに気づきました。
墓地の草も 例年以上に 多く長くのびています。

今朝 久しぶりで 雨で表面を流された 駐車場を竹箒で 掃きながら
思いました。


近頃は 掃除が大変なためなのか アスファルトで きれいに整備された
駐車場が多くなっていますが、私どもでは 一年毎に 川の砂を入れて

昔の小学校の運動場のように 箒の目をいれることを 今だに続けています。

風が吹けば 砂埃があがりそうな 広場に なつかしさと たのしさと
どこかで 面倒だという気持ちが入り混じっているのも 現実です。

朝 きれいに掃除をしても 車が一台 入ってくれば タイヤの跡が
くっきりと
 ついてしまい、夕方には 掃除をした形跡もなくなっています。

雨で 土が柔らかになった時など ちいさな溝があちこちに出来とても
無残な状態になります。


それでも 毎日お掃除を繰り返すことを やっかいなことと思うのか 
それとも、そう思わないかで 人生は大きく変わってくるのだと思います。

現代は 出来るだけ 簡単に楽をすること 省力化することが すばらしい
ことだと
 感じる時代でしょう。

無駄なことを 繰り返すことは よくないことで もっと 大事なことを
意味あることをしようとするのが 進歩的というのか 現代的な取り方
だと思います。


ところが 仏教は 修行の一つとして お掃除や 食事の準備 お勤めなど
毎日毎日 いつもと変わらないように 同じことを繰り返すことを 薦めて
体験させてきたのではないかと 思います。

そうした 毎日の生活を 変化がなく退屈だとか つまらないとか 
意味がないと
 思うところに 迷いの世界があるのではないかと 思えます。

単純で あまり意味がないと 思えることも そこに全力で 取り組むこと
そのことに 実は 尊い意味があるのではないかと 思えてなりません。

人間は 自分の思うとおりになることばかりでは 決してありません。
私にとって都合のいいことは 周りの人にとっては 都合の悪いことで
ある場合が多いものです。

それでも 繰り返し繰り返し どんな小さなことでも つまらないことでも
やるべきことをしっかりとやるところに 仏教が説く 意味があるのだと
思えます。

お浄土というところは すべてのことが 無駄ではなく 意味あることで
しかも そこにいる人々が どんなことでも 喜びながら 生きがいをもって
働いている それが お浄土の姿ではないかと 思います。

同じことでも こんな無駄なことを 何で私がやらねばならないのかと
憤ったり 苦しんだりしながら いやいや生活している人が多い世界、
それが 娑婆の世界 苦しみの世界だと思います。

お浄土へ生まれた人は そのことを ちゃんと さとった人たちが
生活しているところ
 この娑婆で生きている人たちは 同じことを 
していても 楽しさも喜びもなく
 ただ いらいらしながら 苦しみ
ながら行動している そこに大きな違いがあるのではないかと思います。


何事も当たり前ではなくなり どんな小さなことにも喜べる世界 
生きがいを持って取り組んでいける世界。

それは お聴聞した人には すこしは イメージでき、ほんのちょっと
味わえる
 世界だと思います。

お浄土は 決して遠い世界ではなく ここもまた お浄土の一角なの
かもしれません。


しかし、私は そこを 地獄か餓鬼の世界と認識しているのだろうと思います。

お浄土に生まれた人は どんなことにも 感動し喜ぶことが出来るのでは
ないかと思えます。


そして 南無阿弥陀仏が 素直に口に出てそのことにも喜べる世界だと思います。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、7月26日に新しい内容に変わります。


         


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