第757回 人間に生まれても

 平成19年 7月26日〜


妙念寺 電話サービスお電話いただき有り難うございました。

ところで  8万4千と言われる、数あるお経の中で これこそが 
この私のために説かれた教えだと
 親鸞聖人が お勧めいただく 
「仏説無量寿経」


法蔵菩薩が理想とする国を 48の願にまとめられた、その第一願には

  説我得仏国有地獄餓鬼畜生者不取正覚

もしわたしが仏になるとき、自分の国に地獄・餓鬼・畜生の三悪道が
あるようなら、わたしは決してさとりを開きません。とあります。


   地獄とは、他人を責めつづける鬼と、自己をかえりみることのない
   ものの住む 世界です。

   餓鬼とは、欲望(貧欲)に自己を見失ったものの住む世界です。
   畜生とは、自己と自己の行為を恥じること(慚愧)のないものの
   住む世界です。

 私達は、人間に生まれ、人間の世界に住み人間として生きているという
ことに、何の疑いももっていません。
しかし、本当に私たちは人間なのでしょうか、本当に私たちは、人間の世界に
住んでいるのでしょうか。


縁起を説く仏教では 、固定した不変のものはないと考えます。
生き方によって いつでも変わると考えているのです。


ですから、人間に生まれても、鬼のような生き方をすれば、
姿は人間のままであっても、その人は 間違いなく鬼なのです。
普通はそういう場合、「人間が鬼のようなことをしている」といって、
人間であるという前提は変わらないように思っています。


しかし、仏教では「鬼が人間の姿をしているだけのこと」と受けとるのです。

他人を責めつづけるとき、その人は、姿は人間であっても間違いなく鬼であり、
自己をかえりみることのないものは すでに地獄の亡者であり、共に人間の
世界に住んでいるつもりであっても、本当は地獄に住んでいるのです。


  如来が まず第一の願で地獄を問題にされるのは、「地獄なんかあるもんか」
と、自己を見失って、平気で生きている私たちが、危なくて、心配で、放って
おことができなかったからに違いありません。


例えば 刑務所も くそもあるものか、と法律を無視して生きるものがいるので
そういうもののために刑務所が作られているのです。


法律を守って生きている人には刑務所は必要ない。だから、その人には
刑務所はないといってもいいのです。


同じように人間に生まれた以上は、仏法に隋順していきたいと思って
生きている人には地獄はないのです。


 欲望(貧欲)にひきずりまわされて自己を見失い、身も心もやせほそらせて
いる人は、姿は人間であっても間違いなく餓鬼となり、餓鬼の世界に住んで
いるのです。


 また「いいように言ってもらいたい」「いいように見てもらいたい」と、
他人の言葉や顔色ばかり気にかけて、自己を見失っているならば、犬や猫と
同じ畜生の仲間に入れられても仕方がないのではないでしょうか。


せっかく生まれ難い人間に生まれることが出来たのです。

このいのちを どう生きたらよいか。
人間を 人間らしく完全燃焼させるために 親の願いである 如来の願いを
ちゃんと聞きひらき、南無阿弥陀仏を口にする生活 充実した人生を
送らせていただきたいものです。

仏は いつも見守り 呼び続けておられるのです。

人間らしく 生きてほしいと。

妙念寺電話サービス 次回は 8月2日に新しい内容に変わります。

    永田文昌堂刊  人となれ 仏となれ 第1巻 48願の願い
               藤田徹文師著より ごく一部分を引用させていただきました。

         


           私も一言(伝言板)