第765回  名号は 声である

  平成19年 9月 20日〜

本願寺から毎月発行される「宗報」 8月号に 勧学の 深川倫雄 和上が 

巻頭のことば「聞思録」で
「名号は 声である」 と書かれています。


  重誓偈に 「我至成仏道 名声超十方」(がしじょうぶつどう みょうしょうちょうじっぽう)とある。
これは大切であるから、ご開山さまは 正信偈に「重誓名声聞十方」と用い、
大行釈にも引用された。

如来さまは 衆生をどうやって救うか 五劫思惟なさって、全功徳を衆生に回向して仏名に成就し、
その声になって救うと決められた。

これを名声という。

声になる名である。したがって、この句は「名の声十方に聞こえなん」とするのがよい。

偈の名声(みょうしょう)は 名声(めいせい)ではない。

衆生の称名になる前に名号ができ、それが衆生に回向され 称えられるという理解は 正当ではない。

如来さまは、衆生に称えられる「南無阿弥陀仏」という名の声の仏さまとして、
私どもを摂取(せっしゅ)しに(すくいに)来てくださっている。

ご開山さまは、「天親菩薩の仰せの五念門は、法蔵菩薩が兆載修行の時に修せられた」
とお示しくださった。

したがって、名号には五念門の功徳が収まっている。
私の五体の上に、その中の口業讃嘆(くごうさんだん)の功徳が現れているのが称名である。

このことを「大行とは名(みな)を称するなり」と仰っている。

われ称えわれ聞く仏名の声である。

名号正定業である。称えさせられている。

領解文で「このうへの称名は、御恩報謝」と出言するのは、私どもが 称名することを意味している。

昔の和上方は、このことを 動舌発声(どうぜつほっしょう)といった。これがご報恩である。
私の称名は私の身に用(はたら)く 名声(みょうじょう)である。



という 文章です。

如来さまは、「南無阿弥陀仏」という名の声の仏さまとして、
私を摂取(すくいに)来てくださっている。
この私に称えられる仏さまになって 働いていていただくのです。
私が口にする 南無阿弥陀仏は この私の身に はたらいてくださっているのです。
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

次回は、9月27日に新しい内容に変わります。

         


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