第779回  死んだら おしまい ?

 平成19年 12月 27日〜

妙念寺 電話サービス お電話ありがとう ございます。
ご本山の 秋の法要で ご門主が お話いただいた内容に 感激したと
お教えいただいた方があります。
その内容は 本願寺新報にも また 西本願寺のホームページにも
掲載されていますが、今回は その後半部分をご紹介します。
全体は 本山のページで 確認していただきたいと 思います。

 親鸞聖人は、私たちのために、阿弥陀如来のご本願によって
往生成仏するという浄土真宗として明らかにしてくださいました。
この往生成仏は、阿弥陀如来のご本願のはたらきである南無阿弥陀仏が、
信心となり、私を支え、さとりの世界へ導いてくださることの結果です。

今、ここで、ご慈悲を喜ぶことがないならば、往生浄土の意味は、ただ、
つらいこの世から逃げ込む避難場所になったり、この世の楽しみを
そのまま持ち込む天国になったりします。


 お浄土は、煩悩のない阿弥陀如来さまのさとりの国であり、
迷いの世界へはたらきかけてくださる源です。


 「真実信心うるゆゑに すなはち定聚(じょうじゅ)にいりぬれば
   補処(ふしょ)の弥勒(みろく)におなじくて 無上覚(むじょうかく)を
    さとるなり」(同605ページ)と親鸞聖人は詠われました。



 定聚、すなわち正定聚(しょうじょうじゅ)とは、今、ここで、往生成仏が
定まること、迷いの人生を阿弥陀如来の救いの中に生き抜くことです。


 信心、すなわち、阿弥陀如来のお慈悲に気付くことと、煩悩に満ちた私が
最後の依りどころにはならないことに気付くこととは、別のことではありません。

日常生活のことは、自分の力や、周囲の支えで何とかなることが多いのは
確かですし、何とかしなければなりませんが、それだけで、老・病・死は
解決しません。

阿弥陀如来のお慈悲の中にあると気付く時、必ずお浄土でさとりを開かせて
いただくわがいのちである、さまざまの縁に支えられたわがいのちであったと
知らされます。


 私たちに先立って往(ゆ)かれた方々は、人生を教えてくださる先生で
ありましょう。
私たちに仏縁を与えてくださった方は、善知識(ぜんちしき)と味わえます。

 近年、亡くなった方が、風になって世界を駆けめぐっているとか、
星になって光っているとか歌うことが流行しています。

残された者の悲しみを癒(い)やす素朴な表現として、意味のあることは
確かですし、仏教の空思想(くうしそう)や還相回向(げんそうえこう)を
連想する方もあるようです。


 しかし、自力の修行も他力の救いも関係なく、故人を自然現象に置き換える
だけであっては、物足りない気がいたします。迷いを転じてさとりを開くという
仏教の教えに照らして、もう一歩深く味わいたいと思います。


 共にお念仏申して、往生浄土の道を歩みつつ、一人一人が大切にされ、
平和で心の通う世の中を目指してまいりましょう。


                     本願寺新報2007(平成19)年1220日号掲載
               本願寺ホームページ

という内容です。

仏縁を与えてくださった方は 善知識 やがて この私も 必ずお浄土でさとりを
開かせていただくことを 有難く 味わわさせていただきたいものです。

妙念寺電話サービス お電話 ありがとうございました。
次回は 1月 3日に 新しい内容に変わります。


         


           私も一言(伝言板)