第783回 福は内 鬼は内

  平成20年 1月24日〜

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございます。

 小川一乗先生の講話選集を 読み返していましたら こんなところがありました。


 阿弥陀如来の本願ということは、私たちはガンジス河の砂の数を
超えるほどのご縁によって、ただ今のこの瞬間瞬間の娑婆の営みをさせてもらっているが、
しかし、私を私たらしめてくださっているご縁を
 全部取り払ってしまったら、
この私といわれるものは塵垢ほどもない。
無我である。


そういう命を生きている。
そのことに目覚めよというのが本願です。

ただ今の私を、私たらしめているご縁を、全て取り払ってしまったら、
この私はゼロである。

しかも、ご縁でただ今のこの命を生かせてもらっている。そのことを すごいなと
感動できる人間になれと願っているのが本願なのです。


こういう教えは仏教以外では説かれておりません。
この教えは仏教だけです。
ですから本願というのは、ほかの宗教でも
 言えそうなことを言っているのでは
ないのです。
本願は仏教独自のものです。


 ところが最近、いろんな本願の話を聞いていると、どの宗教でも 
言いそうなことばかり言っています。

人間として真実の人間になりなさいというのが本願だと、どの宗教でも
言いそうなことを言う人がいますが、それはまやかしです。
仏教でしか説かれていない願いが本願です.

これを妙好人の浅原才市が見事に押さえています。

   これ才市どこにおるか

浄土もろうて娑婆におる

それがよろこびナムアミダブツ

ご縁を取り除いたら、この私など塵垢ほどもない浄らかな世界。
 浄土に住みながら、いま娑婆の縁をいただいて才市という姿になって娑婆にいる。

「浄土もろうて娑婆におる、それがよろこび ナムアミダブツ」とこう言い切っている。

 これを少し仏教の上での難しい言葉で言うと「生死即涅槃」ということになります。
生死というのは、この娑婆のことです。

それがすなわち涅槃であるということ。
生死に生きつつ、それが同時に涅槃道を歩んでいる。
浄土に生きている。そのことをあきらかに知るということが、悟りということです。


それは本願に出遇って、この煩悩に汚れた惑染の凡夫の身が明らかと なればなるほど、
本願を信ずることによって、生死に生きているただ今の瞬間こそが、浄土もろうて
娑婆におるという身の事実、そのことに目覚めよというのが、「証知生死即涅槃」
とうことです。


それを見事に浅原才市は押さえている。
そういう命は、私のものではありません全部いただきものです。・・・・

という文章です。

まことにありがたいことです。
妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は、1月31日に新しい内容に変わります。

    平等のいのちを生きる より 「現代のいのちの課題」から 法蔵館発行 

         


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