第794回 悪人正機

 
平成20年 4月10日〜

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新しく作られらアニメーション「親鸞さま」に ついていた 解説書には
@   作品の時代背景 A日本仏教が歩いてきた道 B阿弥陀仏の救い(他力本願) 
C流罪のいきさつ D往生浄土 E悪人正機とあります。

今回は この中から 悪人正機について ご紹介しましょう。



「悪人正機」とは「悪人こそが阿弥陀さまの救いの本当の目当てである」
という意味で、煩悩をかかえ罪を重ねて苦悩する人間(凡夫)こそ救うという、
阿弥陀さまの慈悲のこころを表した言葉です。


稲田の草庵で、ひとりの侍が「多くの戦場で殺めた敵は数知れず、その武功で
立身できたものの、よくよく考えれば罪深い所業・いままでのことを思うと、
この身ばかりか子々孫々までお浄土にはいけないのか」と親鸞さまに尋ねます。


 当時、武士はもとより、猟師・漁民・農民といった、生き物の命を奪うことで
やっと生計を保っている人たち、そして各地を流浪して品物を売り歩く行商人は、
罪深く劣った人間であるとみなされていました。


しかし、自分はそのような命を殺める行為をしたことはないと思っている人であっても、
結局はそのような人たちのおかげによって生計を保っているのであって、罪深いことには
変わりがありません。


私たちは、善人というと倫理道徳を守り人びとに尊敬され、法律を破るような悪事を
行わない人であり、悪人とは殺人や 盗みといった罪を犯し、そこまではいかないまでも
道徳的な責任を守らないで自分の利益だけを追い求めている心根の悪い人が悪人であると
理解しています。


しかし、「悪人正機」の悪人とは ただ単に悪事を行ったり心根の悪い人という
意味ではありません。


一生むさぼりや いかり、愚痴などの思いをもって生きているのが人間のありのままの
姿であり、自分の力ではこの苦悩から抜け出すこともできないという、自らの罪深い姿に
気付いた人を悪人というのです。



またその逆に、あくまで自らの可能性を信じ、自分は罪を犯すことはないし、
たとえ罪を犯したとしてもその過ちを反省すれば 正しい人生を歩むことができると
考えている人たちを善人といいます。


多くの人を殺めた武士の問いに、「悪行を重ねねば生きていけぬ我らのような愚か者こそ
救おうというのが、阿弥陀さまの本願なのです」という親鸞さまのお答えの中には、
わたしもあなたと同じ罪を犯してきた人間ですという共感がありました。


阿弥陀さまのお慈悲をいただき、救われるはずのない私が救われる喜びと
感謝に包まれた人は、常に過ちを犯す自らの姿に慚愧する日々の生活の中で、
さらに欲望のままに生きて悪行を積み重ねようという思いを持つことはないのです。



  と あります。

他人のことは 良く見えるものの 自分のことに気づかずに生きています。
よくよく考えると この私こそが 悪人だったと気づくことが出来たのも 
お念仏の働きのお陰でありました。
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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次回は、4月 17日に新しい内容に変わります。


         


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