第800回  無明我執の中で

 
平成20年 5月22日〜

妙念寺 電話サービスお電話ありがとうございました。
お蔭さまで 800回を迎えさせていただきました、ありがとうございます。

ところで
 ふと手に取った小川一乗さんの「慈悲の仏道」という本の中に
「いただいたいのち」 という文章がありました。

その中に 「無明我執の中で」という所がありました。その一部分をご紹介します。


私たちは 迷いの生存を生きている。迷いの生存というのは 仏教で言えば
「我執の世界」です。

無明による我執の中で生きているということです。

藤原鉄乗さんの言葉に、

「もっと生きたいと百歳まで生きても、その人は若死にである。
いつ死んでもいいと、今日の一日を喜んで生きている人は、いつ死んでも
天寿を全うした人である」という言葉があります。

やっぱり仏教というのは、そこに立っているんだろうと思います。
その教えに触れながら、長く生きたい長く生きたいと思っている自分の
我執の世界に目を開かせてもらうのが仏教ですね。

我執の世界を肯定することによって、人間は苦悩していくわけです。
病気をしたくないしたくないと思うから、病気をすれば苦しみになるわけです。
死にたくないと思うから、死ぬことが苦しみになるわけです。

死の苦しみということは、死が苦痛であるか、苦痛でないかということではないのです。
そういうことではなしに、死ぬことが嫌だ、死にたくないという、この世から
消えるのが嫌だというのが、死にたくないということです。

しかし、それは人間の我執であって、自分の命に対する執着であるということが
仏教の智慧によって照らされてくる時、我執はなくならないけれども、死にたくない
という気持ちはなくならないけれども、それが自分の迷いであるということを仏教の
智慧によって照らされながら、どこかで死を受け入れていく。

いのちの終わりを受け入れてゆけるものを持つことができる。

 安らかに自分の死を受け入れていくことができる。死にたくないという気持ちは
あるけれども、どこかで安らかに死を受け入れていける。そういった真実に
出会わせてもらう。

ですから単に、命が長ければいいということは仏教では
 言いません。
いかに燃焼するか。いかに今日一日を喜んで生きていくか。

そのように
 一日一日を喜んで生きることにおいて、三十歳で死のうが四十歳で死のうが、
天寿を全うして死んでゆける世界が開けてくる。そういったものに目を開かせて
くれるのが、仏教の教えなのです。・・・・・

 という文章です。

 一日一日を いかに燃焼するか。
喜んで生きていくか それで私の人生は 生きがいあるのか 空しいのか
違ってくるのだろうと 思います。
南無阿弥陀仏のお念仏を口にしながら 耳に聞きながら、世間の価値観に 
一喜一憂することなく この教えに出会えたことを喜びながら、いのちの限り 
生きていきたいものです。

妙念寺 電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は 5月29日に新しい内容にかわります。


         


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