第804回 この世も

 
平成20年 6月 19日〜

阿弥陀如来は 無量寿 無量光 限りがない 無限である ということを
聴くものの 私たちが住む ここは 欲望に満ちた苦しみの世界。

もし 私の住む世界が 阿弥陀如来の願いから 外れているのなら
阿弥陀如来は 有限になってしまいます。

そう考えてくると 確かに私の住む世界は 地獄餓鬼畜生に近い 苦しみの世界
ではあるものの それは 私自身が 地獄餓鬼畜生の世界にしているだけで

ここも 実は お浄土と同じような すばらしい世界なのかもしれないと
思えてきました。

私の周りにいる 多くの人々 生き物 宇宙自然 皆 すべての働きで私は
生かされているものの そのことに 気づかずに 自己本位で生きているので
この世は 苦しみの世界となってくるのだろうと 思います。

さとりを得た仏や 菩薩方にとっては 私の住む世界でも そこは お浄土の
一部分であるのだろうと 感じます。


私がこの世を どう味わうかで ここは 地獄にも お浄土の一部分にも
なるのでしょう。
しかし 私はどうしても 自分本位の気持ちが抜けきらず
 思いどうりにならない 
苦しみの世界と してしまっているようです。



私の近くの人の思いや 行動が 善意に受け取れるときと そうでないときとが
あるものです。 
受け取り方の違いで この世は どうにでも変わるものだろうと 味わいます。


例え話で 長い箸をつかって食事をする 二つのグループがあり、
一つは 自分だけで食べようとすると、自分の口には食べ物が届かず 
まったく食べることが 出来ない
苦しみの世界であり。

もう一つの国では お互いに 長い箸で 相手の口に運んで上げると 
おいしいものも 十分に食べることが出来る、豊かな世界。


私たちは どうも この世を 苦しみの世界へと 自分の力で 作っているようにも
思います。
気づかないだけで この世は もっともっと 喜び多い世界に
 変化していくのだろうと 
思います。


周りが変わらなくても 私の思いが少し変わることで 見る目が変わることで
気づくことで 違って見え 味わえてくるものと 思います。

青少年の非行などを見ても 親の思いと 子供の思い すれ違っているところに
悲劇が起こっているようです。

親の願いが味わえれば 私のために 苦労していただいていると思えるものの
自分が憎くて 意地悪する 親のエゴだと 受け取ると どこまでいっても
解決はしないもの 受け取る方が素直になれば きっと違って見えてくるものだろうと 
考えました。

 この世を すばらしい世界にするのか 嫌な世界にするのか どうも 私を 
どの位置に置くかで違ってくると 思います。


 仏さまは この私のために 親たちが 子供のことを思って 心配し 注意し 
導いてくれるように いろいろの形で 働きかけていただいているのに 
気づかなかったり 迷惑がったり 思い通りにならないと 怒り 腹立って

苦しみの悩みの人生を送っているのではないでしょうか。

水が 高い所から 低い所に流れるように ろうそくの火が 上に向かって行くように、
草がどんどん成長し 小さな花を咲かせて枯れていくように
 この私も 生き物として 
人間としての 限りある一生を終わるのです。


同じ一生ならば 味わい深い こころ豊かな 一生になれるように あらゆるご縁を
プラスもマイナスも有難くいただき 力の限り生きていきたいものです。


多くの苦難や悲しみや、数々の試練を与えながら、それを乗り切ることで 
豊かな人生に 気づかせようと 法蔵菩薩はご苦労になり 
南無阿弥陀仏を与えていただいたのでしょう。


その南無阿弥陀仏の働きへ 導いてくださった親鸞聖人、多くの先輩たちの願いを 
味わいながら、豊かな人生をいただきたいものです。


妙念寺 電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は 6月26日に新しい内容に変わります。


         


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