第835回 如来と共に

 平成21年 1月 22日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

「親鸞聖人は 何を説いたか」(教育新潮社) という
桐渓順忍先生の本を読んでいましたら、「信仰生活 慎みの生活」
という 項目の一つに 「如来と共に」 というところがありました。


その一部分を ご紹介しますと


阿弥陀如来は、寿命無量であり、光明無量であります。

この時間と空間の完全ということは、いつでも、どこにでもまします
如来ということであるから、いつでも、どこでも私と一緒だと
いうことであります。

もちろん、一面では凡夫の境界をこえた、西方の浄土に
いながら、いつも私と一緒にいてくださるのであります。

この心情は、自分の慎み、たしなみとなって
あらわれるものでありましょう。

善導大師は 「観経」に「光明は遍く十方世界を照らし、
念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」とある文を解釈して
念仏の衆生だけを摂取して捨てたまわないのには、
三つの理由があるといい、その第一に 親縁という理由が
しめされてあります。

親縁というのは 阿弥陀如来と念仏行者との間には 
親しい因縁があるから
 であるといい、それは、衆生が念仏を
称えていれば如来は聞いてござる、衆生が如来を礼拝していれば、
如来は見てござる、衆生が如来を心におもっていれば、

如来は知ってござることだといっています。

いつも如来と一緒にいるということは 一面では
往生についての心配もないから、安心であり、
有難いことでもあるが、一面では、聞いてござる
見てござる、知ってござるものなら、少しは恥ずかしい
おもいがあってよいのではないでしょうか。

悪いことをやったとき「見ておるぞ」、とやられたら、
どんな感じがするでしょうか。
しかも、如来はただ消極的に「見ており、聞いており、
知っておられる」

だけでなしに、いつも「おい、おい、」と積極的に
声をかけてくださるものであります。

 いつも、うしろにいて、にこにこ笑いながら
「おい、おい」と呼びかけてくださる阿弥陀如来。

ふと心がうしろをふりむいたとき、その声を聞いたら、
どんな心になるでしょうか、申しわけがない、
あいすみませんという悔いる心のおこるのは自然で
ありましょう。


そこに慎む心、たしなむ心がおのずからおこるものでありましょう。

いつも一緒にいて、いろいろ注意してくださる阿弥陀如来の
お導きを聞くことが、悪をつつしむ原動力となるものでありましょう。


とありました。

いつも阿弥陀如来といっしょであることを お念仏 南無阿弥陀仏を
聞きながら味わいたいものです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、129日に新しい内容に変わります。

         


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