第838回 二種の回向

 
平成21年 2月12日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

また 平野修先生の本が 気になりだしました。
「親鸞からのメッセージ」という 「教行信証」を 一般の方に
わかりやすく お話しいただいた 講演録 

「浄土真宗の二種の回向」という中に
こんなところがありました。


回向というのは 転換という意味です。
では 浄土真宗において 何が転換されるのでしょう。
それは 真実が転換されるのです。

真実といわれるものは 色もなく 形もなく つかみ
どころのないものです。
そのような形のない真実と いうものを転換して、
南無阿弥陀仏という言葉をもって表した。

ですから、南無阿弥陀仏ということが 回向になるわけです。
これが 如来の回向という意味になります。

その南無阿弥陀仏という名をもって、十方衆生に向かって回向された。
十方衆生、生きとし生けるもの、あらゆるものに
 形なき真実が
南無阿弥陀仏という真実を表わす言葉として
 回向された。

だから、もしその言葉に触れ得るならば、今度はその言葉を通して
姿形ないところの真実そのものに 触れることとなり、我々自身が
変わってゆく。

南無阿弥陀仏という言葉に触れることを通して、
我々が真実そのものに触れてゆくということになるのです。

しかもそれは、決して無自覚に、我々の知らないうちに起こる
わけではないのです。

一般的に言われる宗教のご利益というのは 我々が知らないうちに
起こるものです。
たとえば神社のお祓いなんかも、みんな本人がしらないうちに
ご利益がさずかるわけです。

車の傍らにいたとしても、本人に何の覚えもないうちに、
「はい、あなたはもうこれで安全ですよ」ということになる。

本人は何も身に覚えがありません。こういう無自覚な転換が
いわゆる 普通の宗教の転換です。
身に覚えがないわけです。

親鸞聖人は 「真実の教行信証あり」と言われます。
特に この信と証というのは さとりを表します。

真宗について言われる時に、この真実というものに触れた時、
自分の中にある過ちなり、自分の中にある独断なりというものが
はっきりと分かって「ああこれだったのか」と言って、違う段階に
転じていくことが 自分によく分るということを信証という言葉で
表されたのです。

これがないというと、宗教というものは まことに いい加減なものに
なります。

信というのは 認識を表しますから、気づくわけです。
「真実の教行信証あり」の この行の方は 自分に気づいてくる、
「こんな大きな過ちをしていたのか」「こんなひどい思い込みを
 していたのか」と、こういう独断があったのかということを照らし出す。

そしてそれが自分にはっきり分かると、ああそうだったのだと
いうふうになって、今までと違う所に転換してゆく。

そういう意味を表わすのに「教行信証」といものを
如来の回向は持っていると、言われたのです。

南無阿弥陀仏は 如来の回向 南無阿弥陀仏に触れることによって
私は転換される 真実に照らし出されて 気づかされてくるのです。
無自覚ではなく 自分の過ちを 誤解を 自覚させていただくのが
南無阿弥陀仏なのです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は 2月19日に新しい内容に変わります。

         


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