第841回 自分の心の中に

 平成21年 3月 5日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

 次回の本堂での勉強会に こんなところを 準備しています。
普通 我々は、仏陀の悟りの世界を自分の心の中に 保たなければ
ならないと考えています。

仏教のお話をいただくと澄みきった心になるとか、いつ死んでも
よいような心になるとか、愚痴が減ってくるとか言います。

こういうのはみんな、自分の心の中に悟りの世界を保つという考え方です。

仏法を聞いた以上は、澄みきった心境になるはずだと、我々は考えている。
だから「三年聞いているけれども、さっぱり分からん」とか、
「誘われて
 お寺へ行っているんだけど、聞いているときは、何か
そんなことかなあと思うが
 外に出たらきれいに忘れてしまって、
前と変わらん」とかいうことをよく
 言われるのです。

 これは、自分の心の中に悟りの世界を保っておこう、という在り方です。
親鸞聖人は、それは違うと言われました。

なぜかというと、この世を超えて世界があることを、「浄土」と
いうことで示されているからです。
したがって、自分の心の中にお悟りの世界を保つのが浄土真宗ではないと、
はっきりとおっしゃいます。

浄土は、仏陀の悟りの世界であると同時に、目印です。
この道を通って行けば浄土に至ると、こうなっているのに、我々のほうは
行かないうちから、自分の心の中に浄土を作ろうとしている。

「あなた癌ですよ」と告知を受けても、ゆるぎのないような境地になろうとする。

これは、心の中に浄土を作ろうとしているのです。

それならわざわざ目印を立てなくてもいい。
「ここを通ってこう言ったら、行きつく所は浄土ですよ」と、こう言われて
いるにもかかわらず、我々は、行かないうちから自分のところに浄土を
作ろうとします。

親鸞聖人は、自分の心の中に浄土があるとは、決して言っておられません。
自分の心の中にお悟りの世界のようなものを保とうとする仏教の理解は、
従来までの仏教の理解です。

天台宗とか華厳宗とか、そういった仏教は、そういうことを言うでしょうが
浄土真宗は違います。

 比叡山で修行しておられた方が、見たもの聞いたものに揺り動かされて、
心が悟ったような状態にならないので、法然上人のところに行って、
お尋ねしました。


「あなたは浄土宗をお建てになられて、念仏を勧めていらっしゃる。
 念仏なさると
 散り乱れる心が定まって、きっと悟り澄ましたように
 なっていらしゃるのでしょうね。」


それに応えて 法然上人は
「その条は、源空も力及び候わず」と。
念仏して澄みきった心になるとか、悟りきったような心になるとか、
そんなことは私の力の及ばぬことだ。

「それなら何で浄土宗を興されたのか、念仏を勧められるのか」
「念仏して、如来の世界に目を覚ますということについては、一点の
  疑いもないことだ」と

ここに、仏教が大きく転回したのです。行中心の仏教から、信の仏教へと、
ここに大きな意義があったのです。   
                平野修著 真宗の教相 より一部抜き出し

お浄土は 目印 目標 私の進むべき 方向を示していただいて
いるのです。それでは どう行けばいいのか 南無阿弥陀仏に聞くことで
はっきりと 知らされていくのだと 味わいます。

妙念寺電話サービスお電話ありがとう ございました。
次回は、3月12日に新しい内容に変わります。

         


           私も一言(伝言板)