第848回 信ずる は 喜び

平成21年 4月 23日〜

妙念寺電話サービスお電話 ありがとうございます。

毎月 行っている勉強会で 次のような内容を 学びました。

真宗は 念仏往生です。 念仏して 浄土に往生する。
もし、「念仏する者は 浄土というところに 往生するのだ」 と聞いた場合、
問題が起こります。

 浄土は あるのか ないのか?  実際逝ってみないと
分からないとか。 浄土に往生するということが 信用されなくなる。
そして 聞けば 聞くほど分からんということになってしまう。

浄土往生を 正確に言えば  「念仏する者を 浄土に迎えとる、 浄土へ
往生せしめると 言っているのは 阿弥陀如来の本願である 」 ということ。
弥陀の本願を 信ずるということが  浄土の真宗の要である。
他の宗教と違って 弥陀の本願を信ずる ところに 要点があるのだと。・・・


真宗の基本の問題は   「本願を信ずる」 という この信の ところにあるのです。
その信ずる手だては  我々のほうにない。
我々の方から 本願を信ずる というが、そういう意味では 我々には
信ずる心などはない。

我々が 信じていると  思っているのは、期待したり、 お願いしたり、
祈ったりする 心であって、信じた心 ではありません。

信ずるというのは 喜びを表わす。

信ずる ということの内容は、 どんな場合でも 喜びなのです。
我々が お願いしたり 祈ったり するのは 喜びではない。
助けてくださいと 叫んでいる のであって、別に喜んでいる
わけではないです。

我々が 信ずるという場合は、 ほとんどが 脅迫です。

親が子供に 「あなたを信じて いるからね」 と言う。 
言われる子供は  全くこれは 脅迫です。
信じている と言われても、 子供は 全然喜びません。
それは 親が 信じていないからです。

本来、信ずるという言葉は、言う方も 言われた方も 喜びなのです。

夫婦の間でも 「あなたのことを  信じています」 という時には、
ほとんどが 不信です。 
どれほど 深く疑っているか ということです。


本願を信ずるという場合、 信ずるということが 人間の上に
起こった場合には、 それは 大きな喜びです。

我々が仏さまを 信ずるという 場合も、それが本当かどうかの
決め手になるのは、そこに喜びを 感ずることが 出来るかどうか 
になります。

真宗は、本願を信ずるということである。

その本願には、さとるべきところの行と、 その行によってさとることが
出来るという 証とが、我々のために 用意されている。
南無阿弥陀仏というのは、そういう 仏の行と 証とが内容になっている。

そのことを 信ずることが出来る というところに 真宗があるのです。
南無阿弥陀仏を信ずることが出来た時、 そこに、念ずるということが
起こってくるわけです。

そこには 実に 沢山の内容が ありまして、毎日毎日 やっている
事柄の 一つ一つに、輝く意味が 出てきます。
失敗したこと、病気になったこと、 あるいは  うまくいったこと、
そういう事柄に つかず離れずに、 一つ一つが 光を現わしていく。
そういうものが、念仏を信ずる ということの中に 納まって いるわけです。 ・・・・・

               平野修著 真宗の教相 本願を信じる を 参照

お念仏の人は 一つ一つの出来ごとに 輝く意味を 見出すことが出来る。
それが 都合のいいことも 悪いことも みんな輝きを現わしてくるのです。
南无阿弥陀仏 南無阿弥陀仏には 喜びがあるのです。

 妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は、4月 30日に新しい内容に変わります。

         


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