第853回 ブッダの願い

 平成21年 5月 28日〜

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本願寺御影堂の平成大修復がやっと終わり、降誕会に引き続き 
ご本山では
 完成慶讃法要が行われていますが、これに合わせるように 
テレビでは 木造としては世界一 世界遺産であり 国の重要文化財でもある
御影堂の
 修復の模様を詳細に たびたび紹介しています。

関ヶ原の戦いから わずか三十年程たった 江戸時代初期に 建立されたという
御影堂が
 地震や台風などの自然に打ち勝って 現代まで 残ったのには 
多くの人びとの智恵と努力のたまものだろうと それを拝見しながら つくづく感じています。


 ところで 宗祖親鸞聖人の七百五十回大遠忌を目前に 東本願寺や高田派など
浄土真宗の十派が集まって つくっている 真宗教団連合では 記念事業として
「親鸞」 という本が新しく発行されました。

その中に 本願寺派の上山大峻先生が 「念仏」 という項目で お書き
いただいていますが、 「仏教の誕生 ブッダの願い 」というところに 
こんなところがありました。


生命あるものは、その生命を安全に、幸せに生きるために種々の努力をする。
 敵と戦って防ぐのもそのためであろう。

 生命を保持するために食料を得、また病気や事故など、生命をおびやかすものから
 身を守ろうとする。

 それでも人間の能力では どうしようもない障害がある。
 その時、私たちは、もっと強い力をもつ 神に助けを期待し、その力にたよって
 その解決をはかろうとする。

 「祈りの宗教」 のあり方である。
 古代インドの人びとのとってきた「苦悩から離脱する方法」(=解脱の道)であった。
 
 釈尊の教えるところは、そのような方法とまったく違うものであった。
 かれは過去の宗教的権威にこだわることなく、自ら発見した いくつかの真理(=法)を
 もとに、 まったく 新しい「解脱の道」を明らかにしたのであった。


 かれの発見した第一の真理は、苦悩や争いの多くは、外部から加えられるのではなく、
 自らの心が作りだしたものであること。
 
 第二は、その心は、自己中心の思いに支配されていて、そのために事実を
 誤認し、まちがった方向に判断を導く傾向があること。
 
 第三は、まちがった認識をしていることに気づいて、正しく事実を見るようにすれば、
 争いや苦しみの原因を断ちきることができ、本来の人間性を回復し、
 幸せな人生を送ることができるというものであった。


 釈尊が突きとめた私たちの苦悩の最終原因は、私たちが 「事実を正しく見ていない」
 ところにある、ということであった。

 だからこの苦悩の連鎖を断ちきるためには、私自身が「正しく事実を見る」ことが
 できるようになることであった。

 この「事実を正しく見る能力」、それが 「智慧」 といわれる認識能力である。
 それによって正しく見られたもの、それが「縁起」あるいは「無我」といわれるあり方である。

 すべてのものは相互に依存しあって成立している相対的な存在であり、
 どこにも固定的な実態(=我)は存在しないという事実である。

 この智慧を得て、正しく事実を見れるようになれば、迷いや苦しみの原因はなくなり、
 正しい事実認識にもとづいての世界観や人生観が展開するのである。

 釈尊自身このことを実践し、智慧を完全に備えて「目覚めた人」(=ブッダ)となった。
 そして、事実に無知なるがゆえに、苦悩を重ねる人びとに、真実は何かを語り、
 苦悩から救っていった。「仏教は、釈尊の教えに従って、ブッダになる(=成仏)こと」
 を目指す宗教である。



と あります。

お念仏の教えは この「事実を正しく見る能力」、「智慧」といわれる認識能力を
開発させていただくのだと 味わっています。

厳しい修行をして 体験して理解するのではなく
お念仏を通して 阿弥陀如来の本願を 生起本末を お聴聞することで 
釈尊のめざめを 教えていただける 南无阿弥陀仏には  そういう はたらきが 
あるのだろうと 思います。


妙念寺電話サービスお電話 ありがとうございます。
次回は 6月4日に新しい内容に変わります。

           朝日新聞出版 親鸞  編者 真宗教団連合 2009、3,30第一刷発行

         


           私も一言(伝言板)