第854回 法然の発見 親鸞の確信

 
平成21年 6月 4日 〜

 妙念寺電話サービスお電話 ありがとうございます。

真宗教団連合発行の 「親鸞」という 新しい本の中の 
上山大峻先生の文章を読んでいましたらこんなところが ありました。


〜 すべての人びとが成仏する教え 法然の発見 親鸞の確信 〜 
 というところに


 はたして 末法の五濁悪世の時代環境のなかで、人びとに成仏の可能性が
あるので あろうか、という疑問を 比叡山で厳しい修行に励んでいた
親鸞聖人は 持っておられた。


法然上人の説く 「念仏往生」の教えは、まさにその疑問に答えるものであった。
親鸞もまた「念仏往生」の教えこそが、大乗仏教の目的を実現する「真実の教え」
であると 確信し、法然の弟子となった。


「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦(1201)、雑行を棄てて 本願に帰す」
(「教行信証」「後序」、註釈版473)と自ら記すところである。

親鸞聖人29歳の時であった。

しかし、この教えは、あまりにも従来の仏教のあり方と違ったものであるために、
既存の仏教学者から 理解を得られず、厳しい非難を受け、関係者の処刑や
布教停止の弾圧を受けるまでにいたった。


親鸞は 仏教を、聖者のみに許された修行のあり方(=聖道門)と 
「念仏による往生浄土」(=浄土門) の道があると分類し、

その浄土門のなかでも、阿弥陀如来の本願力回向によって救われる
他力による
 成仏道こそが すべての人びとの往生浄土を可能にする
「真実の教え」であると結論づけ、その理由を 「顕浄土真実教行証文類」
(=略して「教行信証」)という六巻の書物を著して顕かにした。


なぜ 「念仏」によって、ほとんど不可能に近い難事である成仏が、
すべての人びとに
 可能になるのであろうか。

一般に 「念仏」とは 「仏」を 「念う(おもう)」ということである。
しかし、その意味するところは多種である。
念う対象である「仏」も、阿弥陀如来の場合もあり、大日如来や 観音菩薩の
場合もある。


また「念う」といっても「仏の姿を念う」場合もあり「口に 仏の名を称える」
念い方もある。


いま、ここで私たちが 「念仏」という場合は、「南無阿弥陀仏」と口に
称えることで、仏は「阿弥陀如来」 (=阿弥陀仏)であり、「念う」のは
「口に仏の名前を称える」(=称名)ことである。


ところで、阿弥陀仏の名前だけなら四字であるのに、念仏する仏の名前は
なぜ「南無阿弥陀仏」の
 六字 なのであろうか。

この「阿弥陀仏」の頭に付けられている「南無」は「帰命」の意味で、
その阿弥陀仏を信じ、その教えに従うことの意志表明である。

だから「南無阿弥陀仏」 を称えるということは、「私は阿弥陀仏に信順し、
その教えに従います」という阿弥陀如来への
 信順の心(=信心)を
すでに含んでいるのである。


これが一緒になって「名号」といわれる。
これこそ阿弥陀如来が 私たちを救う手だてとして完成されたものなのである。

「南無阿弥陀仏」という名号を聞くというのは、「あなたを必ず救う如来が
ここに存在し、 救う方法もできあがっているのですよ」という如来の
「よびかけ」を聞くことであり、

口に出して名号を称えるということは、そうした如来の救いの願い(=本願 )を

 そのまま受け容れた ことを意味する。

如来の「よびかけ」をそのままに受け容れた心が「信心」であり、
その名号を口に称えて歓びを表す行為が 「念仏」である。

そうして如来の心が私に届くのである。
しかし、そのように如来の願いに順い(=信心)、念仏をすることによって、
本当に私のようなものが
 仏になることができるのだろうか。

 ※

 釈尊は、私たちが苦しみを招いている原因を「事実を知らない」(=無明)
ということに見いだし、
 正しく 事実を認識する「智慧」を得ることによって、
迷いの世界から離脱することができることを
 明らかにした。

しかし、この「智慧」を得て仏になることは、永劫の昔から自己 中心の煩悩に
覆われている
 私たちにはきわめて難しいことである。

ほとんど不可能であると言ってもよい。

そこで、釈尊は、その智慧を如何に得るかについて、いろいろ方法を説き示した。

そのなかに、阿弥陀如来によって設けられた方法(=方便)がある。
「仏説無量寿経」に述べられている「念仏往生」 の教えである。

私たちが苦しみ、争うのは、自己中心の思考によって事実を誤って認識し、
それによって行動するからである。

したがって、ものの事実としてのあり方をそのままに見れるようになれば、
私たちは迷妄から目覚め、本来の自分に かえることができるのである。

それを実現したのが「目覚めたもの」、すなわち「仏」ブッダである。・・・・・


 このように 述べてあります。 

大乗仏教は すべてのものを救わねばという教え
 それには 
念仏往生の教えしかないという確信。


ほとんど不可能に近い難事である成仏が、すべての人びとに可能になる教え
であると
 教えていただいているのです。


     すべての人びとが 成仏する教え  法然の発見 親鸞の確信より
     真宗教団連合発行  「親鸞 」 朝日新聞出版より

  妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
   次回は、6月 11日に新しい内容に変わります。

         


           私も一言(伝言板)