第855回 二つの宗教

 
平成21年 6月11日〜

 妙念寺電話サービスお電話 ありがとうございます。

「暮らしに生きる仏教 」 〜ひるがえされる自己〜 という本の中で
こんな内容がありました。

 ほとんどお寺に顔を出したことのない 3〜40代の壮年が集まっての座談会で
こんな話が出たといいます。

よくよく話を聞いていると お寺には 顔を出さないものの 新興の宗教に加入し
リーダー的な人もまじっていたようですが、みんな異口同音に語られ、うなずかれて
いた意見があったといいます。

それは 「世間にいろいろな宗教があるけれど、まあどの宗教も結局は
ひとつのことを いうておるのや。ちょうど、山の頂上は ひとつやけど、
登山路があっちにもこっちにもあるようなもので、 

どの宗教であっても
 結局は のぼりつめる頂上は同じゃわ」 
そうだそうだ そうなんだという
 意見が大半をしめたといいます。

そうした意見の後 意見を求められて、それでいいのだろうか。
どの宗教も山の頂上がひとつなのと同じという議論で いいのだろうかと
反問させてもらいました。

少なくとも仏教では、 宗教は二つあるといわれているようです。

信と偽の宗教。

もっと端的にいえば 正信と 迷信。

迷信というのは、功利の宗教です。功利の宗教とは、どこまでも自分を中心にして
自分の利害損得を立場にしている宗教です。

こういう信仰を、罪福信といわれます。

罪福の罪とは、罪わざわい、つまり自分にとって都合の悪いこと。
福とは幸福。


自分にとって都合の悪いことは拒んで逃げまわり、自分にとって都合のいいことなら
どこまでも追いかけていく、という信仰です。


この考え方は、そうは露骨にいわないけれど、自分さえよければ、他はどうなっても
かまわないという 考え方に立っています。

自分の欲望充足をはかる宗教です。
これは自己肯定を立場にしていますから、わかりやすくて、あまくて、誘惑的です。

自分優先、自分最高、自分絶対で、あらゆる他の存在、ほかなるものを、
自分のために
 奉仕させるような仕組みにしてしまいます。

いかに うやうやしげにその前にぬかずいて、頭を下げていても、その心の底には、
自分の欲望満足のために、神でも仏でも利用しつくしていく計算、ソロバンが
はたらいています。


こういう宗教(それはもう宗教という名にさえ値しません。まさに偽の宗教です。)
これを迷信といい、古い仏教語で外道といいます。

外向きの宗教です。
外なる者の力をかり、外なる者の力に依存して、どこまでも自分の思いを

つらぬこうとする宗教です。

それに対して、正信とは何かというなら、道理の宗教ということができます。
道理を明らかにし、道理に立って人間の生き方を確立していく宗教です。
道理に照らして、自分自身のあり方を厳しく鋭く見つめ、規正していきます。

外なる者の力をかりて自分の思いをつらぬこうとする、そういう根性を、
道理に照らして
 内へ内へと深め、見つめていく教えです。

外道に対し、内道といわれます。内観の道です。
当然そこに要求されるのは、徹底した自己批判、自己否定です。
ですから正信は、きびしい、痛い教えです。したがってあまり流行らない。
けれど、これでなければ力にならない、いのちが通わない、生きて働かないのです。


迷信、功利の宗教、外道(外向き)は、人間をどこまでも人間でなくさせる
はたらきをもつ、人間疎外、人間喪失の方向を持ちます。


それに対し、正信、道理の宗教、内向きの宗教は 喪失した人間を回復させ、
成就させる、人間回復、人間成就の方向を持ちます。


整理すると

[] 迷信―功利の宗教― 欲望充足・自己肯定―あまい・魅惑的 ― 外向き(外道)―人間喪失

[
] 正信―道理の宗教― 自己批判・自己否定―厳しい・痛い ー 内向き(内道)−人間回復



妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、6月 18日に新しい内容に変わります。

           有斐閣発行  亀井鑛著 暮らしに生きる仏教 より

         


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