第856回 ギリギリ最後の

 
平成21年 6月 18日〜

妙念寺電話サービスお電話 ありがとうございます。

こんな文章を 読みました。

仏教の立場を 自己否定 自己否定と もうしますが、一面から言うと、
仏法は自己否定を 私たちに要求しているのではない。といえるかもしれません。

機の深信、南無ということは、間違ったあり方を間違っていたと引き受けることで、
単なる自己否定とは違うということでしょう。

「そのままでよい」という、仏さまの呼びかけが説かれます。

それに答えて、私の側からは 「このまましかない」 という対応があるのです。
「そのままのおたすけ」 とは、「このまましかございません」 という私の、
ギリギリの現実態にさし向けられた、「もらさずにたすける」のはたらきなので
ありましょう。


罪悪深重ではだめだ、罪悪深重をなくさなくちゃと、裁く立場から一つの資格づけ
をされますと、私たちはどうしても資格を失います。

罪悪深重がなくせんからです。

しかし、仏さまは、「なくすのではない。なくせというなら、お前たちにとって
無理な注文だ、ないものねだりだ。
だからなくせとはいわぬが、なくせん自分の
 罪悪深重を、罪悪深重とだけは 
気づいてくれよ。


気づくだけでいい。なくせんまま、そのままでいい。
罪悪深重のわが身だと気付いてくれることだけ。
これならできぬとはいわせんぞ。


誰でも例外なしにできる、そしてしなければならない、せずにおれないことなのだ。
この気づきという、誰にも例外なしにできることだけを、ギリギリ最後の
たたひとつの
 要求にさせてもらうぞ。これなら、できないといはいわせぬぞ、
どうだ」


と、呼びかけていられます。

例外なしに誰でもできる。
それが漏らさずにたすけると誓われるゆえんです。


歎異抄第一章の「摂取不捨」とは、そういう意味なのです。
私たちはいろいろな教えから、人間はこうあるべきだ、これこれは してはならぬと、
人間の条件を呼びかけられます。

「しかし、この私にはそんなことは、とてもできません」と、逃げを打ちます。
「むずかしいことは抜きで、自分中心の心をなくしなさい。」

「それがこの私にはできません。」
「そんなこといっておってはいかん。少しでもできるよう、努力しなさい。」

「とても わたしにはできそうにありません。」
「1日に一回でもいいから、心掛けなさい。」

一日一善というのがありますが、あれでもやっぱり、それくらいならと、
安うけあいはできません。

こうして 「それも私にはむずかしい、これもできない」と、際限もなく逃げていく。
逃げるというより、開き直る。


仏法では 「それもできません。これもできません」と際限なしに
繰り返していけるか。


最後の一点、終止符を打つところがあるのです。それがあれもできない、
これもできない自分だけれど、そのできないという自分を、そういう私でしたと
知る、知って引き受ける、という一点です。

「それまで、できないとはいわせんぞ」 という一点です。
それを信の一念、南無といわれるのです。
例外なしに誰もができる、せずにおれない。


それを、仏はかねてお見通しで、摂取不捨、例外なしにもらさず救われる、
どんな教えからも乗りはぐれた罪悪深重の私のために、残らず拾って
運んでくださる、赤いランプの終列車の教えがこれなのでした。


という文章です。

出来ない出来ないと逃げて回っているこの私に 
そのできないという自分を、そういう私でしたと知る、知って引き受ける、
という一点です。


「それまで、できないとはいわせんぞ」という一点です。それを信の一念、
の気づきこそが お念仏の はたらきといえるでしょう。

気づくこと 気づかされること よって  開けてくる世界があるのでしょう。

それが 南無阿弥陀仏、お念仏に生きる新たな人生 生活だと 味わいます。


妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は、6月 25日に新しい内容に変わります。

亀井鑛著 暮らしに生きる念仏  有斐閣発行より

         


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