第898回 どうぞ お先に 〜仏教の一つの方向性〜

 平成22年4月8日 〜

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございます。

ところで 近くのお寺の坊守さんが 熱心にブログを 書いて頂いています。
毎日出あったこと 経験したこと 感じたことを 個性的な素晴らしい表現で 
教えていただいて、多くの方からの 反応があり、目が離せないブログの一つです。

そうした中に ご法話を 聞かせていただいたその内容を書いていただき。

  仏さまとは 真理に目覚めた方であり 、さとりに至った方であり、
  我執を離れた方、である。
  ところが、さとっていない「私」が、さとった仏さまのことを
 「私」の頭で考えても わかるわけがない 。

  よく、「仏など、分からんから信じられない」という人がいますが、
  これは 仏より、自分の方を確かなものと信じているわけでしょうから
  どうも「私は」、仏より 賢いと思っていうるのではないか。

との趣旨の お話を聞かれたというものでした。

ところが これに 異論をとなえる方がありました。

仏を信じないこと、それが、仏より自分が偉い
という論法には、飛躍があるように思えます。
この論法でいけば、全ての非仏教徒(キリスト、イスラム、神道などの信者及び
 無宗教者)は、自分を仏より偉い、と思っていることになります。
逆に、仏教徒の誰一人、自分がキリストの神より偉い、と考えている人は
居ないはずです。
この記事には仏教上の意味がある、とは思いますが、少々乱暴な論理展開で、
かえって仏教に反感を持たせる危険性を危惧するものです。


との書き込みです。


また ある人はこれに対して 別の意見を述べておられます。

 仏さまといっても お一人ではなく 数多くいらっしゃるようですが、

そのお一人 阿弥陀如来という 仏さまは すべての人が 本当の幸せにならなければ
自分は 幸せにならないという 仏さまだと 説かれています。

私たちは まずは自分が そして 家族や仲間が 幸せになることを めざしています。

そう言う価値を持っている人には 皆が先で 自分が最後なんて そんなことは
不可能なこと  馬鹿なことだと 感じて生きていると思います。


負けたくない 勝ちたい 損したくない 得をしたいと。自分だけは、
幸せになりたい。

だから努力も工夫も 我慢も辛抱もするのだと。

しかし、 阿弥陀さまのお話を繰り返し聞き、阿弥陀さまが そうであるように、
すべての人が幸せになることが 私の幸せであるということが ことによると
理想ではないか。


すばらしいことではないかと 味わえてきて、自分も そうありたいと努力して
生きていこうとする道もあるのではないかと。

それには 南無阿弥陀仏を口にし それを自分で聞きながら ああ また 自己中心、
自分優先だったと 恥ずかしいことだと反省しながら進んでいく。

そうした気持ちが芽生えてくる それが お念仏の人の生き方ではないかと 
感じています。


ところがこれは 世間の常識を超えていますので 非常に理解しにくい 考え方です。

でも この教えに出あい、こうした価値観を知り 実行してみると 
こころが晴れやかになり 日常の小さな出来事にも、何でもないと
見過ごしていたことにも喜びが 湧き出てくる 
それが、お念仏の教えであろうと、感じるとの意見も掲載されていました。


世間の常識で生きていくと なかなか思い通りにいかないもの。
ところが 阿弥陀如来の価値観で生きる人は 小さいこと 身近なことにも 
喜びが感じられてくる


それが 仏教の 一つの方向性 生き方ではないかと 思います。

仏さまは 阿弥陀さまは すべての人が 幸せを感じることが出来るそれが
理想だと
 努力してくださる仏さまであると、そう自分もありたいと 
感じられれば 人生は大きく変わってくると思います。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございます。
次回は、4月15日に新しい内容になります。



         


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