第905回 お浄土のただ中に 〜南無阿弥陀仏の中に〜

 平成22年 5月27日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

ところで 先日 こんな話を 聞きました。


学校の授業が 苦痛で仕方がない人と 楽しい人との違いがあります。
お寺の本堂での ご法話も  楽しい人と そうでない人と
同じ場所で 同じ話を聞いても 受け取る人の能力によって違ってくるものです。

ところで 阿弥陀如来は すべての世界を すべての人を 照らしつくしていると
説かれているものの この世は 穢土と言われ 十万億の仏国土を過ぎた所に 
西方浄土はあると説かれています。

では 私のいるここは 阿弥陀如来の光に 照らされていないのか 
光は届いていないのでしょうか。

届いていないのではなく その光を感じることが出来ないだけで 実はここは
お浄土の一部ではないかという 話です。



インドから中国に受け継がれ、そして日本に伝えられた浄土教の思想
そして 法然上人までは 西方の阿弥陀如来を信じて、ただひたすら称名念仏して 
往生浄土を願い、臨終に阿弥陀如来の浄土に
 往生するという 受け取り方でした。

しかし 親鸞聖人は その流れと大きく違って 『観経』や 『阿弥陀経』の
それまでの理解は 方便化土に往生する教えであると 味わっておられます。

教行信証の真仏土の巻には 『無量寿経』と 『涅槃経』とで 方便の浄土 
方便化土ではなく 真の仏土を顕していただいています。


では 『無量寿経』という 経典には 何が説かれているのかと いえば 
阿弥陀仏が 一切の諸仏の中で最も勝れた仏であり 阿弥陀という ことばが 
光明が無量であり、寿命が無量である。


阿弥陀という名号が 一切の迷える衆生を救うという本願を建てられたことが 
一切の諸仏に超え勝れており 一切の諸仏に讃嘆される理由になっていると。

一方 『涅槃経』には 真の涅槃とは何かを究極まで突き詰めると、
無量・無辺・無碍の光明であると、これは「光明無量・寿命無量」という言葉 
インドの言葉で表現すると
 阿弥陀ということになります。

真の仏とは 「阿弥陀」であり 真の涅槃とは「阿弥陀」であると。

ですから 真のお浄土とは 無限に輝く無量の光の中にある 
言葉を変えると 一切が『南無阿弥陀仏』に覆われ その中にある。

そこで 念仏のあるところ まさにお浄土そのものであり、念仏する私は
そのまま阿弥陀仏の大悲に摂取されて阿弥陀仏と一体になっている。

念仏に生かされているということは 今まさにお浄土の真っただ中にあって
すでに、無限に輝く光の中に 私は立たされているということです。

しかし、『涅槃経』には 衆生とは何かということが 同時に説かれ
「一切の衆生は 常に無量の煩悩に覆われて、智慧の眼がないために、
その真の仏土をみることができない、これが衆生である」と説かれています。


衆生の私は その浄土の真実のほんのひとかけら その一片さえも見ることが
出来ない。それが無明煩悩に覆われている私の姿である。

私の目に見える一切は、穢土そのもの。迷いの因になるものだけしか見ることが
できないのです。
耳に聞くもの、手に触れるものも、これは私にとって
 苦悩の原因になるもの
ばかりなのです。


浄土のただなかにあって、弥陀の大悲にいだかれているという真実に気づかず。
ただ苦悩の中で 迷い続けるしかない。これが凡夫のすがたです。

煩悩一杯の我々は ここで見るもの 触れるものすべてが 苦しみの原因と
なっていますが ここは お浄土の一部 『南無阿弥陀仏』が聞こえるのは
お浄土のただ中であると 味わえてくると 生き方が まるで変わってくるようです。


お浄土は 遠くにあるのではなく 実はここにある ただ私はそれを
苦しみの世界であると 感じているだけであると。

『南無阿弥陀仏』を聞くことは お浄土の 真の仏の声を 聴くことであり、
大悲の中に
あることを 気づかせ 味わわさせていただくものなのです。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は 63日に新しい内容に変わります。


         


           私も一言(伝言板)