第911回 若者に こそ 〜身近で 理解しやすい教え〜

 平成22年 7月8日〜

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。

ところで 浄土真宗の教えについて こんな書き込みがありました。
「救われる」 ということは どんなことなのか 考えてみました。

という 文章です。

封建制度の時代 庶民の生活は 食べ物も十分になく 仕事も過酷 
やっとお腹が満たされた時、苦しさ痛さを忘れ眠りにつく時
有難い 幸せと感じたのが庶民の生活では ないでしょうか。

子供が病気になり 医者に見せる費用もない この薬草が効くと年寄りに
渡されたとき それを信じて 飲ませ 成り行きに任せるより他にないように、
ただ南無阿弥陀仏で救われると聞かされれば、信じることで 安心が得られる
この教えの他に方法は無かったのではないでしょうか。 ・・・・

歳を取り 体も動かず あちこちが痛い、生きていることが耐えられないとき
周りの老人がそうであったように 南無阿弥陀仏を口にし、安心を 喜びを得る
これが お念仏が伝わってきた 歴史的な環境ではなかったかと思います。

鎌倉時代までは 生活にゆとりのある人々のための教えであった仏教。

経典や論釈を専門に学ぶことが出来る人々は 哲学的な思考も
可能だったと思いますが、一般の庶民は ただ生きることだけがすべて
学問もなく 情報もなく 狭い村社会の中で 毎日毎日 繰り返しの日課 
お念仏の教えは ただ一つ 苦しみ悲しみを抜き去り 夢と希望と喜びを
与えてくれる 誠に有難いものだったのでしょう。

しかし、現代 平安時代の貴族でも出来ないような 豊かな生活 当時の学者以上の
教育を受け 情報を得ることが出来るときに はたして 浄土真宗は 
お念仏の教えは 生活に余裕のある人々にどう 働きかけることが
出来るのか、食べることにも 病気に対しても 生活そのものも 苦しみが
少なくなって、しかも、学者ばかりの現代人に どう表現し 伝えていったらいいのか。

という 問題提起です。


これに対して 
「釈尊は何不自由ない身の上でありながら御出家なさった。」というのが
 通説ですが。
「釈尊は何不自由ない身の上であったがゆえに御出家なさった。」
 というのが 実情ではなかったかと拝察する次第。

豊かで健康な境遇に置かれることで、人生上のさまざまな問題が はっきりと

見えてきて どうしようもない謎として釈尊の前に浮びあがってきたように思います。

こう 教えていただいた方もあります。


戦中戦後の苦しい生活を体験したものは 豊かな生活さえあれば 
満足できましたが いま 豊かさの中で育った若者は 釈尊と同じように
人間としての根本の問題に 直面しているのではないでしょうか。

釈尊の父親である 浄飯王が 教育や物質的な豊かさを 与えれば 
それが子供の幸せであると 理解されたように いまの大人たちは 
若者が問題としている 悩み苦しみが まったく分かっていないのではないかと 
思います。

そういう意味では 現代の若者こそが 釈尊の求められた根本の問題が 
よく理解できるのではないかと 感じます。

いや 現代の若者にこそ 仏教が不可欠なものといえるのではないかと
思えます。

仏教は 古いものではなく 現代の若ものにとっては もっと身近なもの
一番理解できる 環境に生活しているのだと、考えられます。

では こうした教えが、2500年前からちゃんと あるということを どう 
若者に伝えればよいのでしょうか。

 妙念寺電話サービス お電話ありがとうございます。
 次回は、7月15日に 新しい内容に変わります。

         


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