第934回 見聞が蓄積されても

 
平成22年 12月 16日〜

お酒を飲んだり 美味しいものを食べたり 旅行したり 新たな刺激を求めて
それを喜びとしている人が 多いものです。
違った体験をすることで 生きがいを感じようとする人だろうと思います。

ところで 私どもの ホームページに 海外旅行の素晴らしさを説く人の話を聞いて 
感じることがあると 書き込みを 頂きました。


旅をすることで、自分とは何者かということを確認することができる、
旅は自分をテストするものです。忙しさに振り回される私達は、つとめて余裕を作り、
どんどん 旅に出るべきです ・・・・・といった
 旅を奨励する 内容でした。

しかし、お話を聞いていると 数多くの外国旅行をし 様々な経験を されておりながら、
出てくる言葉が、深さを持たないのは
 どうしたことだろうって、思ってしまいました。

旅行者は結局、傍観者です。
ご自分ではお気付きではないけれど、どこかに抜きがたい傲慢さが漂っているのです。

ある本願寺派の御老僧は、生涯を通して外国はおろか、自分の住む県外へさえ
出たことがなかったそうです。

であるのに、その残された言行録の言葉の何と深く、 チカラ強く、切れ味鋭いもので
 あることか!


思えば僕らは 昨日今日始まった者ではありません。
無始以来、曠劫を経歴してきたお互いです。
およそあらゆる境涯、事態をくぐってきたはずです。

この自覚を欠くとき、それこそ宇宙の果てまで旅してもただ、量としての見聞が
蓄積されるだけで、畢竟、虚しさだけが残るように思えます。・・・・・・

との書き込みです。


これに対して 別の方が 書き込まれ 
ところで 生涯を通して外国はおろか、自分の住む県外へさえ出なかった
本願寺派の御老僧の 言葉を 是非 紹介していただけませんかと・・・

それに 回答して それは

上山城守師『如是我聞』、『続如是我聞』(永田文昌堂)の二冊です。
山口県の方で、ご子息の上山大峻氏は龍谷大学の元学長です。
現在、上記二冊とも絶版状態らしく、ネット上での入手は難しそうです。

手元のメモから、いくつかのフレーズをご紹介します。

「珍しい所を見て変わったところを旅して自慢していらしゃるが、
お念仏ほど値いがたいことに遇うことはないぞな。」

「(前略)仏法も法に遇うていると、余り色濃いのでは味がいやらしい。
法に遇うて法の気のぬけているところに仏法の味がある。
生活に仏法の味があるのは、仏法らしいもののないところにあるのではないか。」

「人にかつがれ、世にほめられることは法の魔障である。恐るべし恐るべし。
学んで偉いものになるのは仏法じゃない。
仏法は聞くほど頭がさがるものだ。」

「仏は不請の友となる。暗い人生の道を行く私にいつも離れられぬ。
不請とは知らざるに、求めざるに形に影のそう如く従い、親友となる。
お念仏せよ ー この世はお念仏する場所だといった人があるが、それだな。」

「吉兵衛が『この世を業のさらし場として、明日はどんな業の幕が開くかもしれん。
身の業ならば受け納めるべきである。 受けておくれ』と言っている。
仏法は諦めではない。逃避で はない。

どんなに因縁づけられようと、それを受けてその因縁を果たす。
勤めさせて頂く力がお念仏である。雨であろうと風であろうと
その日その日がお勤めじゃ。」

「いったい私、私と執着し私を立てものにしているが、この私は もともと
架空なもので、ほんものではない。ほんものは 如来である。

その如来が聞こえて見れば、私はほんものでないままに、つかみ所のないまま、
きりのつけないままで、安住して念仏申すのみである。」
・・・・・・・

 ・・・・・これらの言葉を手帳に書き写していた頃、僕はかなり深刻
な病状で、地を這うような毎日を送っていました。

言葉ほど大切なものは無いと思います。・・・・・と

このような 書き込みしていただきました。 誠に 有難いことです。

妙念寺電話サービス お電話ありがとう ございました。
次回は、12月 23日に 新しい内容に変わります。

         


           私も一言(伝言板)