第935回 罪の消滅

 平成22年 12月23日〜

お医者さんで 念仏者 駒沢勝さんの「目覚めれば弥陀の懐」(法蔵館)
という本を読んでおりましたら、「罪の消滅」という 項目がありました。

 信を得ると もうひとつ重大な変化が起こる。
それは人間として犯した罪が消えるということである。
それだけではない、永遠の昔から輪廻転生を繰り返す間に犯してしまったすべての罪が
消滅するのである。


入間が生きるということは苦しみ、悲しみ、悩み、不安などと裏腹であるから、
人が救われる要件として、これらの苦しみから解放されることも重要であるが、
罪から解放されることも同等あるいはそれ以上に重要である。

しかも、重い罪から解放されてこそ、真の救いの安らぎと喜びがあるはずである。
逆に言うと、罪意識のないところに救いはないと思う。

生命体はそれを維持するために、必然的に他の生命体を犠牲にする。
たとえば人間は牛の大事な乳、せっせと蓄えたミツバチの蜜を横取りする。
稲から米を取って食し、木にとって大事な若芽を摘んでお茶として呑み、野菜は
根こそぎ取り上げて栄養にする。

鶏の卵を横取りし、動物や魚を殺して食べる。牛や馬には人に都合のよい労働を強いるし、
娯楽のためには鳥や虫をかごの中に閉じ込める。
人間同士でも傷つけ合い、場合によっては殺人を犯し、戦争までするなど、
生命体としての行為のほとんどが罪である。


自然界の動植物もそれぞれ、他を犠牲にしなければその生命を保つことはできない。
生きるということは罪深いことでもある。人間は本能的にそれが罪であることを
認識している。

 しかし、そのような罪的行為を行うのも、その行為を罪と考えるのも、すべて
人間が一生命体として生きるゆえである。
罪とは、一つの生命体が自分の利益のために行う他の生命体に不利益になるような
思いや言動ということである。


だから社会的な罪は、二つ以上の生命体の間にのみ成立する。

 逆にひとつの生命体内で、ある部分が他の部分に不利益を与えるのは罪にはならない。
たとえば、胴体や頭が両脚に負担をかけることは罪とは考えない。
あるいは腎臓が悪くなると、腎臓は腎臓の血流を増やすようにレニンという物質を
出して血圧を上げる。その結果、高血圧となって脳出血をきたしたとしても、
腎臓の脳に対する罪が成り立たないようなものである。

 子どものミュージカルでお馴染みの 楓の葉っぱフレディが欲張って 手を
広げたくさんの太陽光を受けると、同じ葉っぱのクレアの受けるべき光がさえぎられてしまう。

クレアとフレディが別々の生命体なら、フレディは罪を犯したことになるが、
大きな楓の木としては、木全体で充分な量の光が当たればよいのであって、どの
葉っぱに多く、どの葉っぱに少なく光が当たるかは問題にならない。

クレアとフレディが楓の木という同じ生命体であるという認識のところには、
罪は成立しない。葉っぱとして生きると犯さずにはおれない罪も、楓の木として
生きるところには罪は成り立たないことになる。・・・・・・・


もし阿弥陀仏の救いを実感できないなら、それは自分が一つの自主独立の
生命体だと認識違いをしていて、自分と離れたありもしない別の阿弥陀仏を空想して
いるからだ。・・・・

阿弥陀仏と自分とが木と葉っぱのような関係であることを信知せずして、
救いをもとめても無理だと 解釈している。・・・・

とあります。

科学者としてのものの考え方に 新鮮さを感じています。
独立した一生命体としての自分と そうでない存在を 味わってみたいと思っています。
どうぞ、ご意見を お聞かせください。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は、12月30日に新しい内容に変わります。

         


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