第936回 阿弥陀仏の救い  〜摂取して 捨てず〜

 平成22年 12月 30日〜

お医者さんで 念仏者 駒沢勝先生の「目覚めれば弥陀の懐」(法蔵館)本の中に
こんなところが ありました。


 現生正定聚は、信を得ることにより人の在り方が コペルニクス的大転換をしている。
人間として煩悩的に生きる現象は何も変わっていないが、天動説から 地動説に変わった
ようなものである。


信を得るとは、阿弥陀仏に反逆して、自主独立たらんとする自分が、反逆したまま、
謗法罪の身のまま阿弥陀仏の懐に在らしめられている
 ことも明らかになるからである。

 木から離れた独立した葉っぱはあり得ない。フレディは、自主独立の 一生命体として
生きていると誤解していて、自分を在らしめている
 楓の木に対しては、反逆の身である。
それでも、そんなフレディが楓の木にそのまま在らしめられている。
それと同じである。

阿弥陀仏は謗法罪の私を含めて一体化して阿弥陀仏である。
現生正定聚には そのことも明らかになっている。

人が一生命体として生きるとは、わが身可愛さに徹することだと 何回も述べた。
そして それはどこまでも利己的に、自己肯定的に考え、行動し、語るということだと述べた。

先の機の深信で、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より このかた常に没し
常に流転して出離の縁あることなし」と言えるのは、
 自分が阿弥陀仏に全面的に依存し、
自主独立ではないことがわかって
 いなければできないことである。

わかって初めてできる。そして自分が自主独立でなく他に全面的に依存しているとは 
自分が自分で生きていないということである。

自己が根こそぎ否定されている。

機の深信の内容は、わが身の絶対否定である。
この絶対否定は、どこまでも自己肯定的な自己からは出てきようがない。
機の深信は他者からなされたものである。
他力によるものである。
阿弥陀仏の働きかけが私に現れたものである。

 だからこの機の深信があるということは、すでに弥陀の働きに
動かされているということである。
それで二種深信の二つ目の、法の深信にもつながるのである。

法の深信とは、
 二つには決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して 疑ひなく慮りなく、
 かの願力に乗じて定むで往生を得と信ず。
 (『教行信証 信巻』)

というものである。

つまり、「阿弥陀仏の四十八願は必ず衆生を救い取ってくださると疑いなく、
何の躊躇もなく、私は阿弥陀仏の本願力によって必ず
 往生させていただくと信ずる」
ということである。


信を得たところでは、どんなに阿弥陀仏に反逆していようと、反逆したまま無条件で
阿弥陀仏に摂受されていることが明らかになる。

この法の深信と機の深信は同時である。信の構造はこのようになっている。

二種深信は信の構造そのものである。

 摂取して捨てたまはず。故に阿弥陀仏と名づく。

 の一文がある。信を得るとは、阿弥陀仏とはそういうものであることも
明らかになることである。

どこまでも反逆する私と、その私をどこまでも摂取してくださる 阿弥陀仏の
関係があきらかになる。・・・・・・

 まだまだ続きますが、このように述べられています。

 この私に はたらきかけ 私に現れて 信じさせ お念仏として 
私の口に出てくださる。
それは 私のはたらきというより 仏さまのはたらきだと 味わいます。

忙しい 年末年始 どうか 素直に 阿弥陀さまのはたらきを 味わわせて
いただきたいものです。

 妙念寺電話サービス 次回は 1月 3日に 新しい内容に変わります。

         


           私も一言(伝言板)