第945回 お念仏に生きる喜び 〜お浄土への道を〜

 平成23年 3月3日〜

「大乗」3月号に ご門主さまの法話が掲載されていました。
 今年のご正忌報恩講での ご法話です。


  皆さまとご一緒に、宗祖親鸞聖人の749回忌に当たる御正忌報恩講をおつとめし、
今日、大逮夜を迎えました。
本願寺では4月から、750回忌の報恩講である大遠忌をおつとめいたします。
このたびの報恩講では、親鸞聖人のお徳を偲ひ、,一年を振り返り、これからの
日々を お念仏と共に過ごす思いを新たにいたしましょう。その上で、
大遠忌にお参りしたいと思います。

 仏教は、仏になる教えです。単純に考えまして、仏さまになりたいと
思っている方がどのくらいいらっしゃるでしょうか。
今、さまざまな悩み、苦しみを抱えている方は少なくないと思います。
そのことと、仏になることとがどのように関係するのでしょうか。

 仏になるとは、生死を超えること、真実の智慧と慈悲を得ることですから、
日々の暮らしの上の不都合を単純に解決することではありません。

まず、この世のことはこの世の方法で解決を図るのが当然です。

 しかしながら、それだけでは解決できない問題が少なくありません。
その代表が「老・病・死」です。自分の老・病・死は、受け入れたくない
ことであり、他人の老・病・死を救うことができない場合も少なくありません。

 また、世の中のことで失敗をしたからといって、過去を取り消すことはできません。
さらに広げますと、世の中の争いは、尽きることかありません。
そこに、仏になることの意味があります。

仏になるとは、この現実を超えることであり、翻って、現実の世界に
はたらきかけることです。

 宗祖親鸞聖人はこの解決を、阿弥陀如来のお救いとして身に受けられ、
私たちに教えてくださいました。真実がわからないまま、欲望に
引きずられて生きている私は、この世の苦しみを無くしたいとは思いますけれども、
菩提心、仏になりたいという思いは簡単にはわいてきません。

 親鸞聖人がご和讃に詠われるように「自力聖道の菩提心 こころも
ことばもおよばれず 常没流転の凡愚は いかでか発起せしむべき」
(『註釈版聖典』603頁)であります。

 このような私が、仏法を聞く、聴聞するという縁を得て、お浄土で仏に
ならせていただくことの意味を知らされます。
この世で仏になれるわけではありませんから、老・病・死の苦しみが
消えるわけではありませんけれども、お浄土からのはたらきである、
阿弥陀如来の智慧と慈悲に遇うこと、他力の信心を恵まれることにより、
現実を認め、あるいは受け入れて、往生成仏の道を歩むのです。


 「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる」(『同』571頁)というご和讃のとおり、
お念仏申す身になることは、いつでも、どこでも、阿弥陀如来に
喚ばれていることであり、包まれていることであります。

 不安な人生、限りあるいのちにもかかわらず、往生成仏という確かな
依りどころを得て、人間同士、困った時には率直に助けを求める、
悩みを共にするのです。自分へのとらわれを捨てることはできませんが、
人々の苦しみを捨ててはおけないという阿弥陀如来のおこころを受けて、
共にお浄土への道を歩むのです。

 そこでは、自らのいのちの大切さを知り、他のいのちの大切さに気付かされます。

 この春からの大遠忌法要では、各月8日間、前半の4日はお正信偈の要旨を
和讃で表したおつとめ。後半の4日は従来の節のお正信偈を中心にした
音楽法要です。それぞれのご縁、できれば両方のご縁にあっていただき、
親鸞聖人のお徳を讃え、お念仏に生きる喜びを共にしたいと願っております。


 と、ありました。

 妙念寺電話サービス 次回は 3月10日に新しい内容にかわります。

         


           私も一言(伝言板)