第979回 本当の慈悲は  〜優しさだけではなく〜 
   
   平成23年 10月27日〜


久方ぶりに お念仏とまったくご縁のない 世間の会合に参加しました。
話題の中心は 勝った負けた 損した得した、昔は良かったから始まって
いかに自分は頑張ったかの自慢話へと、まさに娑婆のまっただ中に

いることを実感させられる一時でした。

何でも知っていると、学識が自慢の長老が,何かのことから
「仏教で言う 慈悲と同じことだろう」と、水を向けてこられました。
「少々 それとは 違うようですが」と 言ったものの、あまりの大演説に

 遮って言葉を発することが出来ませんでした。

母親のような優しさ 思いやり、何でも わがままを叶えてもらうことを
「慈悲」と誤解しておられるようです。

仏の慈悲とは 衆生の現実を見て、苦悩の衆生を 平等に救済する、

慈悲の慈は 衆生に楽をあたえること、慈悲の悲は、衆生の苦を抜くこと
「仏心とは 大慈悲これなり」と説かれています。


これに対して、我々が起こす慈悲と思う心は、眞の慈悲ではなく、
これを慈悲と思う心がすでに 如来の慈悲に気づかず、無視している心

であると、それを批判して、正像末和讃には、

「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもふまじ、如来の願船いまさずは、
 苦海をいかでか わたるべき」とあります。


また、親鸞聖人のことばを お弟子さんがまとめた歎異抄には、
「慈悲に 聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、

  かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとく たすけとぐること、
  きわめて ありがたし。

  浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもって
  おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。・・・・」とあります。

この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、
思いのままに救うことはできないのが現実です。
人間の起こす、慈悲はまったく完全なものではありません。



慈悲父母(じひのぶも)という言葉もあります。
釈尊を慈父にたとえ、阿弥陀仏を悲母にたとえ、父が子を教え導くように、

釈尊は浄土へ生まれる道を教えるいつくしみ深い父であり、母が子を
育てるように、阿弥陀仏はその衆生を引き取って、仏に育てあげて
くださる なさけ深い母であるという意味で、高僧和讚には
「釈迦弥陀は慈悲の父母」とあります。

浄土への道を知らせるためには、優しさだけではないはず
教え知らせるためには、厳しさ苦しさも伴うもの。

親鸞聖人は、「ただ念仏することだけが本当に徹底した
大いなる慈悲の心なのです。」と 南無阿弥陀仏を勧めておられます。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏のお念仏こそが 慈悲のはたらきであり、
この私を、ありのままに素直に行動させていただく はたらきが、

仏さまと一緒の生活ができるように育てていただくはたらきがあるのです。


妙念寺電話サービス 次回は 11月3日に新しい内容に変わります。

         


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